宇喜多秀家の終の住処、八丈島 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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宇喜多秀家は豊臣方に与して関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島に流され、島で亡くなった。島に55年も生活し、83歳の生涯であった。この時、江戸の将軍は四代の徳川家綱になっていた。

平均寿命が30年程度の時代に83歳とは素晴らしい。妻・豪姫の実家である加賀前田氏からの米など援助を受け、そして島の魚介類を食すれば、本土の伝染病からも隔離された理想的環境では健康でない方がおかしい。


参考

① 八丈島の宇喜多秀家の住居跡

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東京都八丈町大賀郷2219

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中央奥(西方向)


② 宇喜多家菩提寺の光珍寺

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岡山県岡山市北区磨屋町6−28

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左が岡山駅、右が岡山城

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左奥が岡山城


③ 宇喜多秀家植えた?ソテツ株分け 八丈島から岡山の光珍寺へ

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宇喜多秀家の住居跡に育つソテツ(南海タイムス社提供)

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ソテツの子株は光珍寺の入り口そばに植樹する予定

岡山城を築いた戦国武将・宇喜多秀家(1572~1655年)終焉(しゅうえん)の地・八丈島(東京都)の住民グループ「八丈島久福会」が、秀家が植えたとされる住居跡のソテツを株分けし11日、宇喜多家の菩提(ぼだい)寺の光珍寺(岡山市北区磨屋町)に植樹する。 

同寺は、秀家と、父で城下町岡山の礎をつくった直家(1529~81年)に思いをはせるイベント「戦国の涼星 宇喜多直家☆フェス」の会場。11日に3回目となるフェスが開かれるのに合わせ、秀家を顕彰している同会が植樹を提案した。 

同会によると、住居跡のソテツは高さ約3メートル、幅約8メートル。幹から切り取った子株を持ってメンバーが来岡し、寺の入り口近くに植える。 

同寺の石渡隆純住職(52)は「400年の時を経て岡山に植えられるとは秀家も思わなかっただろう。末永く大切に育て、八丈島との絆をさらに強くしていきたい」と話している。 

直家☆フェスは午前10時~正午。直家の命日が14日とされることから植樹後に法要を営み、宇喜多ファンの参列者がチョコレートを供える。同会の佐々木豊茂顧問による「宇喜多秀家と八丈島」と題した講演もある。問い合わせは同寺(086―222―2028)。 

秀家は関ケ原の戦い(1600年)に敗れた後、流刑となった同島で亡くなるまでの約50年を過ごした。同会は昨年1月に発足し、岡山市など秀家と縁のある地域を訪れ交流を深めている。