弥生時代中期中ころの北部九州での文字の使用について | 日本の歴史と日本人のルーツ

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弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が北部九州の複数の遺跡にあった。つい最近の硯の発掘報告より、さらに200年から300年、年代を遡る事になった。

この時期の中国大陸では秦帝国が既に滅び、前漢時代であり、また北部九州には揚子江下流域の古の呉の国あたりからの渡来系弥生人(ハプログループ O2)及び海の民の海人族安曇氏(ハプログループ C1)が活動していた。

すなわち、この時期の北部九州としては、前漢との交易に必要な漢字を書く為か、日本国内宛に独自の神代文字を書く為に墨を擦る硯が作られた事になる。

文字の書かれた木簡などが出土していないので、文字が漢字か神代文字かの、どちらかは分からない。


参考

① 北部九州に紀元前の硯製作跡 国内の文字使用開始、300以上さかのぼる可能性

毎日新聞(2019.2.19、参考)

福岡県糸島市の潤地頭給遺跡で出土した工作用の石鋸(上2点)と石製硯の未完成品(下)=柳田康雄さん提供

弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)に石製の硯(すずり)を製作していたことを示す遺物が、北部九州の複数の遺跡にあったことが、柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)の調査で明らかになった。国内初の事例。硯は文字を書くために使用したとみられ、文字が書かれた土器から従来は3世紀ごろとされてきた国内での文字使用開始が300~400年さかのぼる可能性を示す貴重な資料となる。

硯の遺物が見つかったのは、潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡(福岡県糸島市)=前2世紀末▽中原遺跡(佐賀県唐津市=同▽東小田峯遺跡(福岡県筑前町)=前1世紀=の3遺跡。既に出土していた石製品を柳田客員教授が再調査したところ、末広がりになる形状の薄い板で、表が磨かれ裏が粗いままという硯の特徴を示しながら、仕上げがされずに破損したものがあり、未完成品だった。墨をつぶす研ぎ石の未完成品や、石材を擦って切断する道具・石鋸(いしのこ)も確認され、現地で硯が製作されたと判断した。

中国での硯の使用開始は戦国時代末(前3世紀)で、前漢時代に長方形の板石製が普及し始める。日本の弥生時代の硯は北部九州を中心に近年相次いで確認され、文字の開始を早める資料として注目されたが、国産かどうかは不明で、古くても年代は1世紀ごろまでだった。今回はさらに100年以上早くなるうえ、中国の板石製とほぼ同年代に国産の硯が作られていたことになる。

柳田客員教授は「倭人(わじん)(当時の日本人)が使っていたとしか言いようがない。硯は文字の需要があったから作った。地元産の石を用いた可能性がある。中国製を模倣しつつ独自の形状をしており、国産化する際にモデルがあったのでは」と話している。【大森顕浩】

外交や交易で文字使ったか

西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)の話:

弥生時代の文字文化の定着と広がりが想像以上に古かったことを意味している。硯が国産されていたことは、中国から流入した文字が日本に定着する過程を示す。外交や交易の際に文字が使われたのだろう。


② 今後のカギは文字確認 国産硯の製作跡から見えてきた弥生の「文明開化」

毎日新聞(2019.2.19、参考)

硯について説明する柳田康雄・国学院大客員教授=福岡県糸島市で2019年2月19日、米本浩二撮影

弥生時代の硯が出土した主な遺跡

北部九州の遺跡で確認された弥生時代中期中ごろから後半(紀元前2世紀末~前1世紀)の硯(すずり)の国産を示す遺物は、紀元前には既に国内で文字が普及していた可能性を強くうかがわせる。弥生時代の硯が近年相次いで確認されてきたが、中国の普及品をいち早く模倣し国産化するなど、弥生時代の「文明開化」の実態も見えてきた。


弥生時代の硯はこれまで、▽田和山遺跡(松江市)▽三雲・井原遺跡(福岡県糸島市)▽中原遺跡(同県筑前町)▽薬師ノ上遺跡(同町)など――で出土してきた。最初に確認された田和山遺跡(2001年)の硯は権力者の威信財とされたが、2例目の三雲・井原遺跡(16年)の硯は文字使用の点から注目された。

同遺跡は「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「伊都国」の中枢遺跡。当時の外交施設があったとされる。このため、古代中国・前漢が朝鮮半島に設けた出先機関・楽浪郡の人々が外交文書を書くため硯を使ったとも考えられ、倭人(当時の日本人)使用の可能性は低いと考えられていた。


倭人の可能性示す、内陸部での出土

だが、17年には内陸部の中原、薬師ノ上両遺跡でも確認。出土したのは大規模集落遺跡で、▽内陸でも先進地なら普及していた▽日常的な交易で取引の記録を書いた――などの説が唱えられ、倭人の可能性が浮上していた。

調査した柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)によると弥生・古墳時代の硯は、現在国内で北部九州を中心に山陰、近畿など計25遺跡47点が確認されており、文字使用の広がりが見えてくる。柳田客員教授は「当時は中国製の銅鏡も国内に流入している。中国との交流の中で、文字も中国の文物として一括して入ってきたのでは。交流にも文字が必要だった」と想像する。

ただ、硯はあくまで筆記用具。文字使用の可能性は高くても、確実な証拠とするには異論もある。文字が書かれた土器などの資料は3世紀以降からで、点数もごくわずか。筆記用具と文字そのものの遺物のギャップを埋めることが、今後の課題となる。【大森顕浩】


③ 吉野ケ里で弥生後期のすずり 有明海沿岸で 佐賀県教委発表

西日本新聞(2019.3.14、参考)


佐賀県教育委員会は13日、国特別史跡の吉野ケ里遺跡(同県神埼市、吉野ケ里町)で出土した石製品が弥生時代後期のすずりとみられると発表した。すずりは北部九州を中心に相次いで確認されているが、有明海沿岸では初めて。県教委は「吉野ケ里では中国大陸や朝鮮半島の遺物が出土しており、すずりは有明海を通じた対外交流を裏付ける史料の一つ」としている。

すずりは、弥生後期の竪穴住居跡から1993年に出土した。長さ7・8センチ、幅5・2センチ、厚さ1・0センチ。長方形の板状に整形され、全ての側面が磨かれているため、完成品とみられる。表面にこすったような跡が残る。ただ、墨が付着した痕跡は確認されていない。

鑑定した国学院大の柳田康雄客員教授は「中国のすずりと似た長方形の完成品としては国内で最古ではないか」としている。

また、95年に遺跡内の溝跡で出土した石製品は、墨をすりつぶすときに使う研石(長さ3・8センチ、幅3・5センチ、厚さ0・5センチ)とみられるという。すずりと研石が佐賀県内で見つかったのは中原遺跡(同県唐津市)に次いで2例目。

県教委はこれまで、石製品2点について「用途不明」としてきたが、玄界灘沿岸などですずりが発見されたことから、形状などを再確認した。

県教委は14日から4月上旬まで、吉野ケ里歴史公園で展示会を開く。

=2019/03/14付 西日本新聞朝刊=


④ 日本には独自の神代文字が既にあった(参考)


⑤ 従来、硯の発見は紀元後1世紀ころと見られていた