織田公公園、群馬県甘楽町 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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織田信長の子孫は信雄、信良の系統がここ群馬県甘楽町の小幡を領有し、信邦の次から天童に移封され、明治維新にいたった。

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群馬県甘楽郡甘楽町小幡


参考

① 「織田氏七代の墓」 甘楽町が周辺整備し観光PRへ

上毛新聞(2017.9.3、参考)

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歴史資産を生かそうと、群馬県甘楽町は小幡地区にある町史跡「織田氏七代の墓」周辺の約1万2000平方メートルを「織田公公園」として整備する。織田信長の次男、信雄(のぶかつ)から8代にわたって織田氏が治めた小幡藩の歴史を観光客に発信。同地区にある、信雄が造った国名勝の大名庭園「楽山園」や、江戸後期の武家屋敷などを巡りながら散策を楽しめる周遊拠点と位置付け、観光振興につなげる。2018年度の完成を目指す。

◎楽山園や武家屋敷と連携で誘客

公園は、2400平方メートルの芝生広場を中心に、舗装広場1100平方メートル、七代の墓、竹林などで構成する計画。本年度は県道富岡神流線から公園用地までの舗装路を新設し、墓の前に芝生広場やあずまや、トイレを設ける。県道沿いは県が石積みに改修し、歩道を整備する。石積みの上は瓦ぶきの「織田塀」で囲む。

七代の墓は、江戸初期に小幡藩主となった織田信雄から7代信富(のぶよし)まで歴代藩主の墓石が並ぶ。いずれも伊豆半島産の四角形や円形、三角形など五つの形状の石を重ねた五輪塔で、最も大きい信雄の墓石には「地」「水」「火」「風」「空」の文字が彫られている。

織田氏の菩提(ぼだい)寺を描いた「崇福寺絵図」には、墓7基全てに御霊屋(おたまや)(建屋)が描かれており、1871(明治4)年に寺の火災で焼失するまでは、墓が建屋で覆われていたとみられる。町が昨年度実施した発掘調査でも、建屋の大きさなどを推測できる痕跡が見つかった。墓石の損傷が進んでいることから、建屋を造って保全を図る。

用地買収や竹林整理を含む総事業費は約1億1000万円。国の社会資本整備総合交付金(都市再生整備計画事業)の対象となる。

茂原荘一町長は「織田公公園は、整備に10年かけた楽山園や、県史跡の武家屋敷である松浦氏屋敷に続く歴史周遊コースの最終拠点。多くの人にゆっくり町を歩いてもらい、良さを知ってほしい」と話している。


② 織田信雄(おだのぶかつ)の子孫(参考)

信雄には8人の男子がいたのですが、このうち4男で小幡藩主となった織田信良は娘を徳川家光の弟、徳川忠長に嫁がせた事で、国主並みの待遇をこの先長年受けることになりました。

その後、信良の家系は1828年に出羽国(今の山形県)天童藩に移封し、戊辰戦争で新政府に対抗した後、明治時代に入ると子爵になりました。

また、信雄の5男である高長は大和国(今の奈良県)に2万石の領地を与えられ、後に丹波の柏原藩へ移封。この家系も明治時代になると子爵の位を授けられています。