福岡県の太宰府市辺りには、白村江の戦い(663年)の敗戦後、大宰府政庁や水城を建設して唐と新羅の軍勢の侵攻に備えたとされている。唐や新羅からの侵攻軍に対し、防衛軍の兵士には陸奥国などから防人を連れてきて配置した。
奇妙なことは、
① 兵士として何故、わざわざ陸奥国から防人を呼んで、地元民を使わなかったのか?
② 唐や新羅からの侵攻軍が北部九州や太宰府を襲う確率はほとんどゼロなのに、何故、無理して水城や大野城や基肄城などを建設したのであろうか?
③ 大宰府政庁を遠の帝と呼んで、何故、高官を配置したのであろうか?政庁は平時の勤務地で、戦時は大野城に立て籠もるのか?
④ 水城の博多湾側に二本の官道が整備されていたが、これも奇妙である。もしも唐や新羅の連合軍が博多に上陸したら、あっという間に水城に押し寄せることになるのでは?後の元寇の時に元軍が、ここまで押し寄せて来たという伝説もあるようだ。この二本の官道は大宰府政庁より南西部の筑後地方からの熊襲の反乱に対峙する大和朝廷軍の為の誘導路兼補給路ではなかったのか!?
① 緑線: 水城
② 黄四角: 大宰府政庁
③ 赤丸: 山城(大野城と基肄城)
実は、九州の人々は、かつて熊襲と呼ばれ、度々、征伐を受けた歴史があるように、朝廷に反抗的であった。仲哀天皇と神功皇后の時代、熊襲と朝鮮半島の新羅が結託して穴門豊浦宮を襲撃した歴史もある。最近では、明治新政府に対しても反抗した。現在でも九州には独立王国があったはずだと主張する九州王朝説を提案して、皇国史観を否定している。
すなわち、九州の人々は大和朝廷に反抗的で油断出来なく、彼らを恐れたのであった。太宰府あたりから南の筑後、肥前、肥後あたりの人々と朝鮮半島の新羅を分断する為に、水城と大野城と基肄城を建設したと考えた方が自然である。
また、もちろん唐や新羅が攻めてきても、当然、防塁の役割も期待出来る。すなわち、本州への侵攻を防ぐ囮の役割であった。また、海外からの来訪者を受け入れる鴻臚館を博多湾岸に置いたのも、伝染病を本州に直接上陸させない為であった。
さらに、水城に関しては御笠川の氾濫を防ぐ役割もありそうだ。また、大野城や基肄城やその他の神籠石山城なども治水治山の役割も期待されたようだ。
雑談1
雑談2
瀬戸内海辺りの白村江の戦いの敗戦後の防衛の為の朝鮮式山城なども、周辺の高地性集落の住民などを監視する為と考えられる(参考)。
参考
① 景行天皇の熊襲征伐(参考)
② ヤマトタケルによるクマソタケル征伐(wikiより)
古事記には、景行天皇の皇子であるヤマトタケルによるクマソタケル(熊襲建、川上梟帥)の征伐譚が記され、日本書紀においては、それに加え、ヤマトタケルに先立つ景行天皇自身の征討伝説が記される。特に前者は、当時小碓命と名乗ったヤマトタケルが、女装しクマソタケル兄弟の寝所に忍び込み、これらを討ち、その際に「タケル」の名を弟タケルより献上されたという神話で有名である。
③ 仲哀天皇8年(wikiより)
9月、皇后が神がかり渡海遠征するよう託宣。無視して熊襲と闘い敗北
軍隊の布陣を得意とする武内宿禰(たけうちすくね)は、甘木・朝倉の戦いでは地形に合わせて七つの陣(梅園の陣・宮園の陣・三府の陣・后の陣・関屋の陣・会所の陣・宮岡の陣)を考え、構えさせました。 これらの陣形のおかげで大和同盟軍は徐々に熊襲軍を秋月の谷間に追い込んで行きます。 途中、弓の矢が不足したので、急いで竹を切り出し、製作させました。 竹を切り出した場所が、現在の矢野竹(やのたけ)だと言われています。
秋月の谷間に追い込まれた羽白熊鷲(はしろくまわし)は、小石原川に沿った退却ルートを考えていました。 しかし、先を読んでいた戦術家の武内宿禰は宮園の陣(現在の秋月八幡宮)を構えて、その退却ルートを封じていたのです。 そして、秋月城跡の垂裕(すいよう)神社に最後の陣・梅園の陣を築き、主要軍を突進させて、いっきに羽白熊鷲を討ち取りました。
⑤ 明治新政府への反乱(wikiより)
⑥ 西南戦争の戦場(参考)
⑦ 皇国史観への反発、九州王朝説(wikiより)
⑧ 古代から九州人は独自性をアピールして、少しでもディザインを変えていた(参考)
⑨ 古代の九州人は装飾古墳を作るなど、独自性をアピールして自己主張していた