JR山陽本線の明石駅 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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JR山陽本線の明石駅は明石城のお堀の真南にあるが、元々、武家屋敷の敷地内に駅を作ったようだ。だから、明石駅以南、旧山陽道までの街並みが碁盤の目になっている。

明石藩は小笠原家から大久保家、本多家、松平家と譜代と御家門の大名が治めた。山陽本線とお堀の間に唯一、家老の織田家の門が残っている。

兵庫県明石市大明石町1丁目1 JR明石駅

明石城のお堀と織田家長屋門とJR山陽本線

JR明石駅(左)と明石城(右)

織田家長屋門、背後に明石城とお堀がある。


参考

① 主要駅駅舎立地に廃城令が関係? 明石城と明石駅の深い縁

神戸新聞(2018.12.31、参考)

130年前の1888(明治21)年、明石駅(兵庫県明石市大明石町1)は開業した。2019年に築城400年を迎える明石城と同駅の成り立ちには、切っても切れない因縁がある。その因縁をひもといた。(小西隆久)

現在の明石駅周辺=明石市大明石町1

明石駅は1888(明治21)年11月1日、旧山陽鉄道の兵庫-明石間の開通に伴って開業した。

山陽鉄道は、同年1月に設立された民営の鉄道会社。後に三井銀行で経営改革などを成し遂げる実業家、中上川彦次郎が初代社長に就いた。寝台急行や食堂車などを国内で初めて導入したことでも知られる。

近代化を急ぐ政府によって1906年に国有化され、社名は消えたが、現在もJR山陽線の路線名に面影を残す。

明石駅が建てられたのは城の内堀のすぐ南側。なぜこの場所が選ばれたのか、経緯を示す資料は残っていない。

当時、駅舎周辺は士族の屋敷などが立ち並ぶ武家町だった。この場所が駅になった背景には、ある理由があった。

「その頃、外堀の内側にあった武家屋敷の多くが空き家や耕地になっていた」

こう教えてくれたのは、明石市立文化博物館の学芸員、加納亜由子さん(37)。

当時の明石城は、1873(明治6)年の「廃城令」を経て、すでに藩庁の機能は失われていた。

このため、城外に移り住んだ士族も多く、空き家や田畑になった武家屋敷が多くあったという。

1883(明治16)年の「播磨国明石郡大明石村全図」では、この頃の武家町に多くの空き家があったことが、色分けされた地図で分かる。線路の敷設予定地の多くがそれらに重なっていたことが示されている。

立地の理由にはもう一つ、交通の要衝としての魅力があった。

東西の西国街道や三木方面に向かう陸路に加え、海路の入り口である明石港も近かった。当時、景勝地として明石城の人気が高まっていたことも後押ししたとみられる。

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駅はその後、それまでの国鉄明石駅と、宇治川電気(現・山陽電鉄)の電鉄明石駅が1931(昭和6)年に一体化。高架化して現在の姿になった。

今では、JRの1日平均乗客数が約5万2千人と県内では三宮、神戸に次ぐ3位。関西でも新大阪に次ぐ13位(2016年度)。

16年12月、再開発ビル「パピオスあかし」もオープンし、駅ビルなどと相まって市街地のにぎわいを生んでいる。

一方、明石公園も年間入場者数246万6千人(17年度)。阪神甲子園球場に次ぐ県内2位で、明石駅が近い立地がその数字を押し上げる。

明石駅と明石城は、今も深い縁でつながっている。


② 明石藩の家老織田家(参考)

織田信長の叔父犬山城主織田信康を祖とする。信康の子信清は信長に敵対して敗れ、その子津田信益は信長、秀吉、晩年は福井藩に仕えた。津田姓は織田氏の庶流が名乗ったという。徳川に対する松平のようなものだ。

信益の子信勝は初代大野藩主松平直良に仕えた。直良の子直明が明石藩に移封され、織田家もともに移ってきたわけだ。瓦に描かれた家紋は丸に山の字である。

明石の織田家は信長に直接つながらないものの、一族であることは確かだ。尾張織田一族、なかなか生きる力はあるようだ。


③ マルハニチロの創業者の中部幾次郎の故郷(参考)(wikiより)



林兼商店の林兼は、父親の中部兼松が林崎の兼松と呼ばれたことに由来する。下関市には今でも林兼産業、林兼冷蔵、林兼コンピュータ、林兼石油と言う会社が存在する。ハヤシ・カネと言う高利貸しの婆さんに出資してもらったと言う都市伝説がある。


④ 山陽電鉄明石駅