百済地名は大阪府、奈良県、そして滋賀県に若干見いだせるが、百済系の住民は広く関西地域に限りなく多数、存在しているようだ。
そして、つてにつてを手繰って、現在も朝鮮半島からの移住者が関西地域に多く定住している(参考)。
古代の百済人は当時の日本語、すなわち原日本語の一方言(現在の関西弁のルーツか!)を喋る日本人の一派であり、白村江の戦いの敗戦の後に日本列島に渡来し、現在の関西や関東に定住したと考えられる。しかし、朝鮮半島に残留した人々が差別されながら大陸の諸民族(新羅人、漢民族、モンゴル族、エベンキ族など)と混血し、朝鮮語を喋る韓国・朝鮮人の中の左派系の被差別民になったと考えられる。
この百済人にルーツを持つ人々は気質や価値観が、現在においても韓国の主流の保守系右派の人々とは異なり、日本人に親和性があり、日本列島に定住を決心したようだ。
特に大阪市のコリアタウンを古代に遡れば百済人にまつわる歴史が濃厚に残存する地域に重なっているようで、同じ気質と価値観を持った気心の合う人々が互いに引かれ合うように集中したとも考えられる。
だから、現在、日本に定住する百済人の子孫たちは悩むことなく堂々と日本人として生きるべきである。
参考
① 大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎
仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった
画像引用:地名で分かる渡来人の分布
https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater
仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった
大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。
鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。
鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。
大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。
半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。
仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。
奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。
当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。
百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。
これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。
大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。
鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。
半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。
渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。
百済滅亡で難民が押し寄せた
時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。
660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。
百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。
百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。
この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。
百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。
百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。
当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。
百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。
こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。
たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。
渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。
秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。
韓国からの20万人大脱走
時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。
1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。
このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。
この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人以上が日本に逃れたとされている。
当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。
結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。
李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。
鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。
これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。
日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。
それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
② 【未来志向の虚実】(4)在日韓国人「架け橋」の苦悩
大阪生野コリアタウンの韓流ショップやコスメショップには若い女性が集まる=11日、大阪市生野区(前川純一郎撮影)
在日韓国人の商店が軒を連ねる大阪市生野区の「コリアタウン」。放課後になると、K-POPアイドルのグッズショップをめぐる制服姿の女子高生らでにぎわう。通学かばんには、ハングルで書かれた自分や好きなアイドルの名前のバッジ。大半は日本人だ。
地元出身の在日3世、金光敏(キム・クァンミン、47)は、隔世の感があるという。「差別を恐れて在日コリアンと分かるものを隠し、日本名で生きる選択をした人たちもいたあの時代は何だったのか」
もちろん、韓流ブームだけで在日韓国人が好感を持たれるようになったとは思っていない。10月30日と11月29日、いわゆる徴用工訴訟で韓国最高裁が日本企業への賠償命令を確定させ、日本政府が反発すると、自身が事務局長を務める「コリアNGOセンター」の事務所には「日本に住んでいる以上、立場を明らかにしろ」と脅迫まがいの電話がかかってきた。
日韓が共同開催した2002年のサッカー・ワールドカップなどで両国の距離が縮まれば、「在日韓国人の喜びの声」を求められ、関係が冷え込むと一転して憎悪をぶつけられる。金は「日韓関係に翻弄され、日本社会が望む『在日コリアン』像を演じさせられるのは苦しい」と語る。
■ルーツを知りたい
《在日韓国人が、日韓両国国民の相互交流・相互理解のための架け橋としての役割を担い得る》
1998年の日韓パートナーシップ宣言にはそんな表現があるが、現実には在日韓国人は両国のはざまで困惑しているだけなのかもしれない。
近畿大国際学部韓国語コースの女子学生(20)は、中学1年のころ、両親に在日韓国人だと打ち明けられた。「私は日本人じゃないってこと?」。在日3世の両親は帰化したので国籍は日本だと答えたが、動揺は収まらなかった。
振り返れば、アルバムには1歳の誕生日に韓服を着た自分と、七五三の和服姿の写真があった。食卓には毎日キムチがあったが「お母さんの好物かな」ぐらいに思っていた。
韓国語コースに進学したことは、だれよりも祖父が喜んだ。自分自身、ルーツをもっと知りたいとも思っている。ただ、「在日と明かすと良く思わない人もいるのでは」と悩む。
先の大戦後、日本に併合されていた朝鮮半島は解放されたが、その後の朝鮮戦争(1950~53年)などで日本に残ることを余儀なくされた人々は、約60万人が在留し特別永住者となった。現在は4世、5世の時代になっている。
■歴史教育のバランス
大阪市住之江区の私立学校「金剛学園」は、大阪府と韓国政府両方が認可している。小中高で約200人が在籍するが、両親とも韓国籍という生徒は減り、K-POPブームで韓国にルーツのない日本人が増えた。
ただ、教育内容で日韓のバランスを取るのは難しい。校長の尹裕淑(ユン・ユスク、48)は、日本の教育課程に沿った内容が7割を占めるとし、「韓国側から構成割合を増やすべきだとの意見が毎年ある」と明かした。
歴史教育は独特だ。竹島(島根県隠岐の島町)をめぐっては、韓国が独島(ドクト)と主張していることも教え、高校生は授業で討論を行う。結論はあえて求めない。尹は「正しく知るためには両方の主張を自分で調べ、相手の意見を聞くことも大切だ」と話した。
日韓宣言から20年という節目の年に、両国の関係が悪化するのはなぜか。双方が相手を責め、一部に憎悪や偏見をあおる動きがあるのは問題だが、互いを表面上しか知らないことにも原因はあるのかもしれない。
《確固たる善隣友好協力関係を構築していくためには、両国が過去を直視し相互理解と信頼に基づいた関係を発展させていくことが重要である》
高らかにうたわれた理想への道のりは、まだ遠い。(敬称略)
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連載は石川有紀が担当しました。
⑨ 関西弁は百済人の言葉