江戸時代までの教育は個性尊重だったが、明治時代からは四民平等で画一教育が尊重された | 日本の歴史と日本人のルーツ

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江戸時代の寺子屋の絵を見ると、姿勢もてんでバラバラに座ったり立ったり、学習内容も子供によって違っていたようだ。吉田松陰先生の松下村塾でも、教科書もカリキュラムも無く、生徒一人一人の能力と個性に応じて別々に対応していた。

明治になると、現在の公立学校もそうであるが、碁盤の目のように縦横整った机に座り、同じ制服とランドセルを着用した。そして、文部省が認めた画一的な教育になってしまった。


長州藩を代表する尊皇攘夷派の人達は天皇をトップとする一族と言え、京都の条坊制の街並みを理想とし、農家から商家まで、みんな同じ、みんな平等、男女平等を価値観の中心に据えたようだ。

それに対して、江戸時代までの東国の武士をルーツとする武家社会は、てんでバラバラの自己主張・自己責任を尊重する個性の価値観を持っていた。現在までのサラリーマンと専業主婦の組み合わせは、江戸時代までの武家に由来するかも知れない。


参考

① 語源はオランダ語。日本のランドセルが海外でも話題に?ランドセルの歴史を探る

Japaaan(2018.12.21、参考)

子どもたちの実用品として、教科書やノートなどの学用品をいれて登校するランドセル。小学校入学と同時に、おじいちゃんおばあちゃんからプレゼントしてもらったという思い出を持つ方も多いのでは?

最近では色や形も多様化し、カラフルになってきました。またブランド物のランドセルも販売されているよです。


そんなランドセルですが、近年は、子どもたちの実用品としてだけではなく、ファッションやインテリアなどとして、国内だけではなく海外にまで需要が出ているようです。

今回は、多くの日本人にとってなじみ深いランドセルの過去と現在についてまとめてみようとおもいます。

日本の学校にランドセルが登場したのは、1885年のことです。採用したのは、当時、宮内省管轄の官立学校だった学習院。当時、同校に登校していた児童は、馬車で通ったり使用人に荷物を預けたりするなど様々でした。

しかし同校は、「学校では皆平等、家庭環境を教育の場に持ち込むのはいけない」との理念のもとに「学用品は自分の手でもってくる」べきだとし、子どもたちは、馬車や人力車で通学することや使用人に荷物を預けることを禁止されました。

その際に採用されたのが、背中に添えて両手をあけることができ、持ち運びの利便性が良かった、軍隊用の背のう(はいのう)です。この背のうがオランダ語で”ランセル”と呼ばれていたことから、”ランドセル”という言葉が生まれました。

現在の箱型ランドセルは、大正天皇が小学校入学の際に贈られたのが始まりです。その後、徐々に日本中の小学生に普及しました。

ランドセルはサブカルチャーなどにも取り入れられるようになりました。

1982年にシングソングライターの戸川純が、自らのライブステージに紺色のプリーツの吊りスカートにランドセルという姿で現れて一世を風靡します。また、1997年には、タレントの篠原ともえがランドセルをファッションとして採り入れ、話題を呼びました。

最近では外国人アーティストにも注目されはじめ、2014年3月頃、アメリカの女優ズーイー・デシャネルが赤いランドセルを背負ったことがきっかけで、若い人たちの間でもランドセルを身に着けることがブームとなりつつあります。

それに加え、最近のアニメ文化の流行により、日本のアニメを通してランドセルの存在を知った外国人が、日本旅行時にお土産としてランドセルを購入する例も増えてきており、空港や免税店など外国人向けのショップで商品として見かけることも多くなりました。

インテリアとしてもランドセルは注目をされ始めています。近年では、過去に使っていたランドセルを子どもの頃の思い出として残しておきたいとの需要から「ミニランドセル」として小型に再加工するビジネスも展開されています。

色やサイズ、ブランドなど、使う側の個性に合わせて選べるようになったランドセルですが、ランドセルには、日本の教育の根本的な考え方である「みんなが平等に学ぶ」という精神が受け継がれているんですね。


② 明治後の女子教育

旧下関阿部技芸高等女学校(参考)


③ 寺子屋(教育機関)てらこや (コトバンクより)


近世から近代初頭にわたり広く普及した庶民教育機関。中世寺院の世俗教育に源流はみられるが、本質的には江戸中期以降の商品・貨幣経済の発展を基盤として、勢力を伸長した庶民の教育需要に即応し、自主的に成立し普及した教育施設である。したがって一教室・一教師組織の素朴な規模(学童20~30人くらい)のものが多く、学童は6、7歳から12、3歳の男女で、寺子、筆子(ふでこ)などとよばれ、往来物(書簡体の教科書)などを手本とし、手習うという反復的訓練を通して、生業や生活に必要な知識・技能・道徳を学習した。師匠は、僧侶(そうりょ)、武士、神官、町人などが知られるが、地方では、村吏、農民師匠も多かった。また、都市や商業的農業の進展した農村地域では算盤(そろばん)を、大都市では茶道・華道・漢学・国学などの教養科目を加えるものもあるなど、地域社会の構造・機能・様態などに応じた学習も行われた。このように庶民生活に密着した寺子屋は、庶民生活の向上と教育需要の増大、幕藩体制の動揺に対応する幕藩領主の保護奨励とによって、宝暦(ほうれき)・明和(めいわ)・安永(あんえい)(1751~81)のころから増加の動きをみせ、天保(てんぽう)(1830~44)以後においては、安永期(1772~81)に比べて47~100倍という増加をし、『日本教育史資料』によれば、その数約1万5000校に達した。寺子の幕末期における就学率は、埼玉・群馬両県下の養蚕地帯でおよそ40%から50%、愛知県の商品的農産地帯などで平均47.9%という高率の所もみられた。このように普及をみた寺子屋は、明治以後、小学校教育に圧倒され消滅したが、近代における義務教育普及徹底の大きな基盤となった。[利根啓三郎]

『石川謙著『寺子屋』(1966・至文堂) ▽石川謙著『日本庶民教育史』(1972・玉川大学出版部) ▽利根啓三郎著『寺子屋と庶民教育の実証的研究』(1981・雄山閣出版)』


④ 江戸時代の寺子屋教育(参考)



⑤ 四民平等の明治維新と個性・差別の江戸時代