著者の母は15歳の時に旧下関阿部高等技芸女学校(現早鞆高等学校)に入学した。昭和20年に終戦を迎えたが、その時期を挟んで昭和19年春から24年春まで阿部に在学した。終戦前は関山に芋を植える作業に行き、空襲で校舎が焼失すると養治小学校や陸軍の馬小屋で勉強し、この馬小屋で卒業した。
運動場が無く、運動会は綾羅木の中山神社の隣の広場を利用した。また、母の部活は陸上部に属していたが、関中(現在の下関西高)の運動場で関中生と一緒に走っていた。
早鞆100年史より
校章
母は左手前で授業を受ける。校舎は地下一階と地上一階の構造で、前庭は上りの傾斜である(母より)。
阿部高等技芸学校(昭和十年代) 、現早鞆高校で、明治三十四年に創立した阿部裁縫塾が前身。戦災による焼失時は、現在山口合同ガス㈱の西、小高い丘にあった。現在地へは昭和二十二年に移転。(しものせきなつかしの写真集 下関市史別巻より)
参考
① 阿部ヤス あべ-ヤス(コトバンクより)
明治3年1月3日生まれ。34年山口県下関に裁縫塾をひらき,45年阿部裁縫女学校(早鞆(はやとも)高の前身)を設立,大正3年校長となる。13年阿部高等技芸女学校と改称した。昭和24年3月5日死去。80歳。長門(ながと)(山口県)出身。山口女学校卒。旧姓は岡田。
明治34年4月 阿部ヤス女史家塾を興す
明治45年4月 下関阿部裁縫女学校を創設
大正13年3月 下関阿部高等技芸女学校と改称
昭和21年4月 早鞆高等女学校と改称
昭和23年4月 財団法人早鞆学園を設立 早鞆高等学校設置
当時は登り道に石の階段は無く、コンクリ舗装か何かであった。昭和20年の終戦前に空襲で校舎と周辺の建物は焼失した。生徒達は桃ケ丘の地名を知らず、校地をガスと呼んでいた。山麓に山口合同ガスのタンクがあった。空襲後、養治小学校の校舎、次いで貴船町の陸軍の馬小屋を借りて授業を受けた(母談)。