文化学院が無くなった! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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御茶ノ水駅を降りて、明治大学の北側をフランス語を教えてくれるアテネフランセに行く途中の右手に、他の学校と違った不思議な雰囲気の校舎があった。有名な文化人が勉強したところと聞いていた。

私はフランス語の勉強にアテネフランセに通学しており、文化学院の前を通り過ぎるだけであったが、文化学院のこの雰囲気に吸い込まれて覗いた思い出がある。

平成30年3月31日で閉校となると、惜しい気がする。

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旧文化学院校舎入口

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中央: 東京都千代田区神田駿河台2丁目


参考

① 与謝野晶子が教えた文化学院が閉校 有島武郎らも教壇に

朝日新聞(2018.3.31、参考)

建築家の西村伊作や与謝野晶子・鉄幹夫妻らを中心に創設された「文化学院」(東京都墨田区)が31日、閉校する。自由な教育方針で数多くの芸術家や文化人を輩出した学校が、97年の歴史に幕を閉じる。

文化学院は1921年、千代田区内に創設された。芸術や文学による人間教育を目指し、国の学校令によらない自由な校風が特徴だった。校舎は英国のコテージのようなデザインで、服装も各自の好みに任されていたという。

講師陣は第一線で活躍する文化人が多く、与謝野夫妻や有島武郎、山田耕筰らも教壇に立った。関東大震災で校舎が焼失し、戦時中には強制的に閉鎖されたこともあったが、戦後に再開し、1972年には専修学校となって文学や美術を教え続けていた。山東昭子・元参院副議長やバンド「米米CLUB」のメンバーら、多くの著名人が学んだ。

だが、経営は次第に苦しくなっていたとみられる。2年前には、高卒以上の生徒が通う専修学校の募集を停止。今年2月には、都内で医療専門学校などを展開する了徳寺学園と合併し、3月末をもって閉校することを公表した。最後の卒業制作展も3月11日に終わった。

了徳寺学園によると、4月以降は卒業証明書の発行など、事務手続きを同学園が引き継いでいくという。文化学院はホームページで「閉校することは断腸の思いです」と記し、「創立100年を迎えることはできませんでしたが、皆様においては文化学院のよき精神を心に抱きつつ、今後のご健闘をお祈り申し上げます」としている。(円山史)

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「東京一ハイカラな学校」と言われた文化学院の登校風景=1935年ごろ撮影


② 文化学院の概要と最後

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平成26年 - 高等課程の募集を停止。お茶の水キャンパス(千代田区神田駿河台2-5)から両国キャンパス(墨田区両国2丁目18-5)へ校舎移転

平成30年 - 学校法人了徳寺学園と統合し、平成29年度をもって文化学院閉校。