日本国内では文化財級の建物であるが、韓国のソウルにあるばかりに撤去話がある建物を紹介する。すなわち、日本統治時代に建てられた日帝残滓とみなされている。
その他、漢字を廃止してハングル文字だけを使用すること以外に、日本語起源の単語の朝鮮語への置き換えなども推進されている。さらに、日本統治時代にまたがる時期に韓国の発展に寄与した偉人達も糾弾され、消されるようとしている。
単に古いものを新しくして行くのなら問題ないが、不都合な物事や人物を消して歴史を都合よく作り変えること、例えば建物や銅像さらに顕彰碑などを撤去して元々何も無かった様に装うことは、自分達のプライドを保てても、自分達のよって立つアイデンティティや歴史基盤を自ら不安定にさせてしまう。
すなわち、何が何やら真実か分からなくなり、美しいファンタジーのみが残ってしまうことになる。それならまだましで、世界文化は韓国起源と言うウリジナルを主張して世界の笑い者になったりしている。
① ソウル駅
1899年9月18日に開通した京仁線は、首都・漢城府と仁川港を結ぶ路線だったが、開通当時に漢江の直前にある鷺梁津駅が終点となっており、漢城府への連絡が悪かった。1900年7月5日、漢江鉄橋の開通により漢城府にようやく鉄道が入ってくるようになったが、当時の南大門駅は町はずれの水田の中にある10坪の大きさの木造バラックであった。当時は龍山駅のほうが規模が大きく、南大門駅は補助的な役割を果たす駅に過ぎなかった。1905年に京釜線、翌1906年には京義線が龍山駅を起点に開通し、朝鮮半島を貫く列車が龍山駅を通るようになっても、南大門駅はいまだ龍山駅から別れる盲腸線の中間の小さな駅にとどまっていた。
開業当時、南大門駅はターミナル駅ではなく、実際の起点は当駅の北(現在の梨花女子高校付近)にあった「京城(キョンソン)駅」となっていた。この駅は1905年3月27日に「西大門(ソデムン)駅」と改称した後、1919年3月31日に廃止されている。
1910年、日韓併合により首都漢城が京城と改称された。京城府の人口が増加するにつれて、京城の玄関口となる中央駅を作る必要性が増した。当時の中心駅で京釜線・京義線・京元線の起点となる龍山駅は、軍事的用途で建設されたうえに市街から離れていて新駅舎には不向きだった。このため、中心街に近い既存の南大門駅を、新たな京城府中央駅として改築することとなった。それまで龍山線を通っていた京義線を南大門駅経由にする新線工事が始まり、1922年、辰野金吾に学んだ塚本靖の設計による新駅舎の建設工事が始まった。1923年1月1日には「京城(けいじょう)駅」と改称され、1925年、現在も残る赤レンガの駅舎が竣工した。当時、辰野金吾設計の東京駅に次ぐ東洋第2の規模の駅舎であった。京城駅は満州方面の国際列車を扱うなど、朝鮮半島の鉄道輸送において中心的役割を担うことになる。
② 漢江鉄橋
漢江鉄橋は、大韓民国ソウル特別市の漢江に架かる全長1,110mの鉄道橋で、北岸の龍山区二村洞と南岸の銅雀区鷺梁津を結ぶ。1896年に京仁鉄道(現:京仁線)の敷設権を得たジェームズ・R・モースによって、1897年3月に建設が着手され、1900年7月5日に竣工した(A線、単線)。これにより、鷺梁津駅を起点としていた京仁鉄道は、漢江北岸の京城駅(現在のソウル駅の北に位置した駅)まで延伸された。1905年に京釜線が敷設されると輸送量が増大し、これに対応すべく上流側に漢江第二鉄橋(B線、単線)が建設された(1911年11月着工、1912年9月竣工)。A線の下流に位置するC線(複線)は、1944年に完成したものである。
D線(白色、複線)は、京釜線の三複線化に伴い、A線とC線の間に新たに建設され、1994年12月に竣工した。
③ 韓国銀行(旧朝鮮銀行)
2. 台湾、日本統治下の駅舎図面保存 「鉄道建築に文化的価値」
【台北共同】台湾の文化部(文化省)は21日、日本統治時代(1895~1945年)に建築された鉄道駅舎などの図面約5千枚を修復、デジタル化して保存するプロジェクトを進めていると発表した。2020年までに完成、公開する計画。
作業を進める成功大学(台南市)の劉舜仁教授は「日本時代の鉄道建築の文化的な価値を探究したい」と語った。
台湾では日本時代の建築物が積極的に保存されている。また鉄道建設は台湾の近代化に貢献したと評価されている。
油紙などに描かれた台北、台中、台南、高雄などの駅舎の図面は1998年に台湾の国鉄にあたる台湾鉄路の施設で大量に見つかった。
⒊ 韓国で「親日派の銅像を撤去しろ」という騒ぎが続発
撤去を求める紙が貼られた梨花女子大初代総長の銅像 YONHAP NEWS/AFLO
現代韓国では、日韓併合時代に日本政府と協力して功績を残した政治家、官僚、文化人らに「親日派」のレッテルを貼り、「民族の裏切り者」と糾弾することが法律で定められている。最近、この親日派狩りが激しさを増しているという。在韓国ジャーナリスト・藤原修平氏がレポートする。
* * *
韓国ソウルの名門私大・梨花女子大学の構内にある初代総長の銅像のすぐ前に、一枚の説明板が設置された。昨年11月13日のことだ。銅像を「恥ずかしい」と切り捨てる文言のすぐ下には、「初代総長・金活蘭の親日行為を知らしめる」と謳われている。
金活蘭は戦前から女性運動家として知られ女性教育の充実に貢献。戦後には梨花大総長のほか、大韓赤十字社副総裁などを歴任。国連総会韓国代表も務めた。
説明板の除幕式を執り行ったのは「梨花女子大親日清算プロジェクト企画団」を名乗る学生団体だ。銅像を撤去すべきという意見は以前からあり、撤去に向けた説明板の設置プロジェクトを昨年3月に立ち上げ、募金などにより実現させた。説明板によると「歴史をきちんと正そうとする動きが、大学や韓国社会の至る所に広く行き渡ること」が目的だという。自分たちは韓国社会を自己浄化させる正義だというのだ。
しかしこの説明板は、その後2週間で大学側により撤去された。その翌日、前出の企画団は「説明板撤去を糾弾する」という主旨の声明文を公開。「金活蘭の親日行為を擁護し、隠蔽することに汲々としているだけだ」と学校側を追及した。
梨花女子大だけではない。昨年5月22日には同じソウルの高麗大学で、やはり創設者の銅像を撤去しろという騒ぎが起こった。銅像の人物は日刊紙「東亜日報」の設立者でもある金性洙で、戦後1951年5月から翌年2月まで李承晩政権で副大統領を務めた大物だ。しかし昨年4月、最高裁で“親日派”認定判決が下された。
これを受けて同大学生会が銅像の撤去を主張。さらに、全国各地にある金性洙記念施設の撤去や、本人が受けた建国勲章の剥奪までも要求した。
韓国の学生がもはやこの世にいない韓国近代化の貢献者まで「親日派」として糾弾する背景には、盧武鉉政権時代の2005~2006年に制定された二つの法律の存在がある。「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」と「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」だ。これらは連動しており、簡単に言えば、戦前の日本による韓国統治に協力した人物を親日派と断定し、その名前を『親日人名辞典』に記載、日本統治時代に蓄財した財産を国家が没収するというものである。