臼杵の磨崖仏の存在意義 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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臼杵の磨崖仏は九州・西中国・四国の主要神社を結ぶ聖なるラインの焦点として、極めて重要な位置にあった。

このような場所は偶然には得られない。意図的に場所を定めて、阿蘇山由来の凝灰岩と古代コンクリート(ジオポリマー コンクリート)を併用・接着して、磨崖仏を建立したようだ。他地域では、環状列石・磐座・社殿・山やピラミッドの頂上で聖なるラインの焦点としたが、当地では石仏を焦点としていることになる。

豊後地方を中心に豊国は海人族安曇氏の地盤であり、一族の蘇我氏が聖徳太子に協力して仏教を日本に受け入れた時、真っ先にこの地にお寺や仏を建立したようだ。現在でもこの地域には明治の廃仏毀釈で破却された寺院などを含め無数のお寺や石仏群があるが、仏教受容期のものが相当あるようだ。全国的にも山伏が活動する神社はかつては神仏習合の寺社であり、聖なるラインのネットワークを構成する主要な焦点になっているが、蘇我氏の仏教の受容により寺院化したものである。 

南九州の神社は、この臼杵の磨崖仏と聖なるラインで結ばれているため比較的新しいと判断される。実は、鹿児島県内の神社群は幕末に寺院を破却して、日本書紀の創世期に出てくる神話の聖地とされる場所に神社の社殿を建築した歴史があった。可愛山陵と言う日本創世期の古墳は早くても聖徳太子の生存時期、実際には幕末に作られたことになる。

偽書とされるウエツフミはこの地域あたりで発見され、豊国文字と言う神代文字で書かれており、ウガヤフキアエズ王朝と言う天皇家に先行する王朝に関する記述などがあることがよく知られている。これは、当地域の海人族安曇氏の歴史書であった。

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臼杵の磨崖仏の石仏群

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① 赤丸: 臼杵の磨崖仏
② 青丸: 大元神社
③ 緑丸: 宇佐神宮
④ 黄丸: 忌宮神社
⑤ 黒丸: 軽島豊明宮
⑥ 白丸: 見島(長登銅山を通過)
⑦ 白四角: 千光寺(大山祇神社を通過)
⑧ 黒四角: 石鎚神社の頂上社
⑨ 黒白四角: 黄丸: 豊後二見ヶ浦
10 赤四角: ストーンサークル登母祖公園
11 青四角: 新田神社(可愛山陵、高千穂峡の神社を通過)
12 黄四角: 鵜戸神宮(青島神社を通過)
13 緑四角: 日田の若八幡宮と三隈山
14 南北赤線: 東門鎮護住吉八幡宮から南下して、軽島豊明宮、足立山妙見宮、英彦山神宮、日田の若八幡宮、霧島神宮を結ぶ


参考

① 軽島豊明宮から臼杵の磨崖仏までの聖なるラインのクローズアップ

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② 青丸: 大元神社
③ 緑丸: 宇佐神宮
④ 黄丸: 忌宮神社
⑤ 黒丸: 軽島豊明宮

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① 赤丸: 臼杵の磨崖仏
② 青丸: 大元神社
③ 緑丸: 宇佐神宮

臼杵の磨崖仏が最も新しく、聖徳太子の仏教受容期以降の建立となる。宇佐神宮は八幡神を祀る前、相当古い姫大神を祀る神社であった。軽島豊明宮は応神天皇の誕生後で、宇佐神宮が八幡神を祀るまでの間に創建されたことになる。


② 臼杵の磨崖仏(wik iより)

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磨崖仏造営の時期や事情を証する史料は一切残っていない。地元に伝わる「真名野長者伝説(炭焼き小五郎伝説)」では、この磨崖仏は亡くなった娘の菩提を弔うために長者が彫らせたとされており、用明天皇が登場することから、この伝説の舞台は6世紀後半と考えられる。しかし、実際の磨崖仏は、仏像の様式などから大部分は平安時代後期、一部は鎌倉時代の作と推定されている。

その後、磨崖仏は山岳仏教の衰退と共に忘れ去られ、1000年の風雨に曝され続けることとなった。元々阿蘇山からの火砕流が溶結した凝灰岩に掘られた石仏は脆く、また参拝者によって自然にできた道が大雨の際は川に変わり石仏を削り取った。現在、多くの石仏の下半身が切り取られたように無くなっているのはそのためである。


注: 用明天皇 (ようめいてんのう、コトバンクより)

?-587 記・紀系譜による第31代天皇。在位585-587。

欽明(きんめい)天皇の第4皇子。母は蘇我堅塩媛(そがの-きたしひめ)。聖徳太子の父。仏法を信じ、神道を尊んだ。病にかかった折、三宝に帰依(きえ)したいと群臣にはなしたことが、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがの-うまこ)と大連(おおむらじ)物部守屋(もののべの-もりや)との対立を助長した。用明天皇2年4月9日死去。墓所は河内磯長原陵(かわちのしながのはらのみささぎ)(大阪府太子町)。別名は大兄(おおえの)皇子、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)。