十和田湖の東の新郷村にキリストの墓と言われる得体の知れない土盛りがある。
この土盛りと、付近の環状列石などの縄文時代の遺跡を直線でつなげてみると、聖なるラインが浮かび上がった。すなわち、この土盛りは縄文遺跡の一つと考えた方が良い。
キリストの墓なら2000年前の弥生時代であり、エルサレムやローマ由来の遺物の他に、弥生時代の遺物が出てきて欲しい。
① 赤丸: 新郷村のキリストの墓
② 緑丸: 日本中央碑
③ 黄丸: 胆沢城跡
④ 白丸: 大湯環状列石
⑤ 青丸: 秋田城跡
⑥ 黒丸: 払田柵跡
参考
そんな突拍子もない仮説が、茨城県磯原町(現北茨城市)にある皇祖皇大神宮の竹内家に伝わる竹内古文書から出てきたのが昭和10年のことです。竹内氏自らこの新郷村を訪れ、キリストの墓を発見しました。1936年に考古学者の一団が「キリストの遺書」を発見したり、考古学・地質学者の山根キク氏の著書でとりあげられたりして、新郷村は神秘の村として人々の注目をあびるようになりました。
③ 観光スポット、キリストの墓(wik iより)
『竹内文書』で知られる竹内巨麿(皇祖皇太神宮天津教の開祖)らが1935年8月に戸来村(当時)を訪れ、笹に埋もれていた塚をキリストの墓と主張し、伝説が生まれた。竹内文書は、ゴルゴタの丘にて磔刑に処されたのは実はキリストの弟イスキリで、本物のキリストは密かに日本に逃れ、天寿を全うして亡くなったという説を唱える(実際は戸来村の農民の墓と考えられている)。この主張は、観光客誘致など地域興しのために村民ら関係者にある程度受け入れられている(キリストにちなんだ上記の特産品・土産物はその表れである)。塚には十字架が建てられ、6月の第一日曜日に「キリスト祭」が開かれているが、取り仕切るのは村で最も由緒がある三嶽(みたけ)神社の宮司である。塚近くには竹内文書写本や「キリストの遺書」(資料館解説によれば1936年考古学者の一団により発見)など関連資料を展示する資料館「キリストの里伝承館」が建つ。2004年(平成16年)6月6日の第41回キリスト祭にはイスラエル駐日大使が出席し、エルサレム・ストーン(エルサレム市街の建築物外壁に使われる白い石灰岩)を寄贈した。