奈良時代から平安時代の律令国家の中央政権の蝦夷征伐の前進基地が聖なるラインのネットワークの接点にあった。
蝦夷(縄文人の末裔たち)の祭祀遺跡や住居跡だった所を占領して逆に前進基地にしたことを示唆される。
③ 青丸: 日本中央碑
④ 黄丸: 多賀城碑
⑤ 緑丸: 二荒山神社
⑥ 黒丸: 奥尻島
⑦ 青四角: 小牧野遺跡
⑧ 黒四角: 津神島
⑨ 緑四角: 安曇野
11 白丸: 小牧野遺跡
12 黒四角: 三内丸山遺跡
① 赤丸: 払田柵跡
② 赤四角: 秋田城
参考
① 漆紙文書に「秋田城」、出土物で初 払田柵跡から
秋田魁新報(2017.11.10、参考)
古代・出羽国(でわのくに)の役所跡「払田柵跡(ほったのさくあと)」(大仙市払田、国指定史跡)で「秋田城」などの文字が書かれた漆紙文書(うるしがみもんじょ)が出土し、発掘調査した県教育庁払田柵跡調査事務所(櫻田博憲所長)が9日、報道機関に公開した。
同事務所によると、「秋田城」と明記された遺物が出土したのは全国で初めてで、払田柵が秋田城と密接な関わりを持っていたことが裏付けられた。歴史書などに記述がない「謎の古代城柵」といわれる払田柵の性格を読み解く上で、貴重な史料として注目される。
② 秋田・払田柵跡で出土の漆紙文書に「秋田城」の記述
大仙市と秋田県美郷町にまたがる平安時代の史跡「払田柵跡(ほったのさくあと)」の発掘を進める県教育庁払田柵跡調査事務所は9日、7月に出土した漆紙文書に、同時代に出羽国北部(現在の秋田市)に置かれた軍事・行政の拠点「秋田城」の記述があったと発表した。出土文書に秋田城の文字が確認されたのは初めて。コメとみられる物資の数量も書かれており、軍事・行政の拠点間で物資などの交流があったことを示す資料だという。
文書は長さ約15センチ、幅約9.5センチ。9世紀前半から10世紀前半に書かれた帳簿の下書きとみられる。漆の入った容器の落としぶたに再利用されたため、漆の付いた部分が残った。赤外線で読み取ったところ、第1面に5行29文字、裏側の第2面に2行7文字が認められた。
判読できない文字もあるため全体は不明だが、岡本と名乗る国司の「大目(だいさかん)」の記述が見つかった。大目は規模の大きい「国」に配置され、出羽国は通常の「目(さかん)」と考えられていた。調査事務所の桜田博憲所長は「払田柵に大目がいたことで、払田柵が行政の中心地の国府に準ずる行政機能を持っていた可能性が高まった」と話した。
漆紙文書は11、12の両日、大仙市の県埋蔵文化財センターで一般公開される。公開時間は午前9時~午後4時。連絡先は県教育庁払田柵跡調査事務所0187(69)3331。
[払田柵跡]9世紀前半(平安時代初期)に創建され、10世紀後半まで存続した出羽国の軍事や行政の拠点。史書に明確な記述がなく、「無名不文の遺跡」と言われている。現在は国史跡。
秋田城は奈良時代から平安時代にかけて東北地方の日本海側(出羽国(でわこく))に置かれた大規模な地方官庁で、政治・軍事・文化の中心地でした。蝦夷(えみし)の人々が暮らしていた東北各地に同じように造られた律令国家の地方官庁の遺跡は「城柵官衙遺跡」(じょうさくかんがいせき)と呼ばれており、秋田城はその中で最も北に位置しています。
天平5年(733)に、秋田村高清水岡(たかしみずのおか)に遷(うつ)された当初は「出羽柵」(いではのき)と呼ばれ、天平宝字(てんぴょうほうじ)4年(760)ごろに秋田城と呼ばれるようになりました。奈良時代には出羽国の政治を行う「国府」が置かれ、また津軽(青森)・渡嶋(わたりしま)(北海道)のほか、大陸の渤海国(ぼっかいこく)(中国東北部)など対北方交易・交流の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられています。
平安時代に入り、元慶(がんぎょう)2年(878)の蝦夷の人々による元慶の乱を経て、10世紀の中頃まで機能しました。10世紀後半には古代城柵としての機能は失いますが、歴史書には「秋田城」の名称や官職名としての「出羽城介」(でわじょうのすけ)、「秋田城介」(あきたじょうのすけ)が記されています。また、鎌倉時代以降、「秋田城介」は北方を鎮護(ちんご)する役職名となり、武門の名誉となっていきました。
秋田城基本データ
・国指定史跡 ・昭和14年指定、昭和53年追加指定 ・指定面積 約90ha(893,733㎡) ・外郭 東西・南北約550mの不正方形 ・政庁域 東西94m、南北77m ・昭和34~37年に国が発掘調査。昭和47年からは秋田市が継続的に発掘調査。 |
東日本の古代城柵は、当時の律令国家が各地に暮らしていた蝦夷の支配や総括を目的として、越後(えちご)・出羽(でわ)・陸奥(むつ)国に設置した軍事・行政機関です。秋田城はその中でも最北のものです。秋田城の主な役割には次のようなものがありました。 ①行政機関としての役割 戸籍の作成、税の徴収など、現在の市役所・県庁と同じような機能がありました。秋田城では役人が働いており、当時の文書の断片がたくさん出土しています。 ②軍事機関としての役割 有事の時には武力で対抗、治安を維持できるような、現在の警察のような機能があり、兵士が常駐していました。当時の武器・武具が出土しています。 ③北方交易・交流の役割 最北の城柵官衙遺跡である秋田城は、律令国家の支配が及ばない北東北や北海道の蝦夷に対する支配や交易、大陸との外交など、特に重要な役割を担っていたと考えられています。 このように秋田城は、西の文化の終着点かつ北の文化の窓口であり、当時の国家の重要な施設の一つでした。 ④ 胆沢城跡(wik iより) 文献上の初見は『日本紀略』にあり、坂上田村麻呂が802年(延暦21年)1月9日に陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。征夷大将軍の田村麻呂はこれにより造胆沢城使を兼任した。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。おそらくまだ建設中の4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者アテルイの降伏を報じた。 新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。 9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。 815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。これ以前には他国から派遣された鎮兵500人が常駐していた。初めから500人だったか、別の改正を経て500人になったのかは不明である。 9世紀後半になると、その権威は形骸化していった。 |