多賀城と多賀大社 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

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宮城県の多賀城碑のある多賀城跡は滋賀県の琵琶湖東岸の多賀大社と聖なるラインで結び付けられ、その間に縄文時代の遺跡が挟まれている。さらに、多賀城跡は東日本の縄文時代の多くの遺跡(環状列石など)と聖なるラインで関連し、中心的な位置にある。すなわち、多賀城が出来る前から、相当に古い時代からずっと存在していたことを示唆している。

また、二つの多賀を結び付けるヒントは偽書とされる古史古伝で有名な秀真伝(ホツマツタヱ)にもあった。

すなわち、古事記にあるような国生み神話は縄文時代以前の物語であり、相当古い時代から多賀大社のルーツがあったのかも知れない。

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① 青丸: 多賀城碑
② 青四角: 多賀大社
③ 青四角と青丸を結ぶ聖なるライン上に安曇野がある。また岩屋岩蔭遺跡や志賀高原の高天ヶ原もこの聖なるラインにほぼ一致する。
④ 黄丸: 二荒山神社
⑤ 黒丸: 高天原山
⑥ 赤丸: 飯豊神社
⑦ 白丸: 永平寺
⑧ 赤四角: 奥尻島
⑨ 緑丸: 大湯環状列石
10 緑四角: 伊勢堂岱遺跡
11 黒四角: 小牧野遺跡


参考

① 秀真伝(ホツマツタエ)の日高見多賀の壺若宮(参考)

原文に「日高見(ひたかみ)の  御座(みくら)の跡に
また都  遷して名づく  多賀の守(こふ)  壺若宮(つぼわかみや)の(11-1)」とあります。

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アマテル神の御子ヲシホミミノ尊は、近江の多賀から、日高見の多賀城市にある祖父トヨウケ神の御座の跡に都を遷し、宮の名は多賀の守(こふ)「壺若宮」と名づけたことがわかります。すなわち多賀城市の多賀とは、近江の多賀(多賀大社)からとった名前だったのです。


② ホツマツタエ(参考)

ホツマツタヱは、漢字の影響を受けない唯一の日本古来の歴史書である。文字は神代文字の「ヲシテ」である。

【根拠】

ホツマツタヱは漢字が伝来する以前に、完成し奉納されていた。ホツマツタヱの完成は、アスス暦の843年(西暦26になり、琵琶湖近くの淡宮(現在の多賀大社)に奉納された。


③ ホツマツタエの二つの多賀(参考1参考2)


④ 多賀大社(wik iより)

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和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の写本のうち真福寺本には「故其伊耶那岐大神者坐淡海多賀也。」「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」(いざなぎのおおかみは あふみのたがに ましますなり)との記述があり、これが当社の記録だとする説がある。ただし『日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、国産み・神産みを終えた伊弉諾尊が、最初に生んだ淡路島の地に幽宮(かくりみや、終焉の御住居)を構えたとあり、『古事記』真福寺本の「淡海」は「淡路」の誤写である可能性が高い。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

藤原忠平らによって延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列した。「二座」とあるが、伊邪那岐命・伊邪那美命とされていたわけではない。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。


⑤ 多賀城(参考)

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多賀城と多賀城碑

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多賀城は、奈良・平安時代に陸奥国(むつのくに)の国府が置かれたところで、奈良時代には鎮守府(ちんじゅふ)も併せ置かれました。神亀元年(724)、大野東人(おおののあずまひと)によって創建され、11世紀の中頃に終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たしました。

規模は、約900メートル四方で、周囲は築地塀(ついじべい)で囲まれ、南・東・西に門が開いていました。ほぼ中央には、儀式などを行う政庁(せいちょう)があり、4時期の変遷があることがわかっています。さらに城内の城前・作貫(さっかん)・大畑・六月坂・金堀・五万崎の各地区には、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていました。