なぜ八尺瓊勾玉が三種の神器の一つなのか? | 日本の歴史と日本人のルーツ

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三種の神器の一つとして八尺瓊勾玉があるが、なぜ勾玉なのか?と言う疑問が湧いてくる。

実は、勾玉はメノウまたはヒスイで出来ているが、当時の日本だけのハイテク加工技術で生産されたからである。また、特にヒスイの原石はほとんど日本のみで産出し、まるでダイヤモンドのような希少性のある宝石であった。

すなわち、勾玉は縄文時代以来の日本の象徴であった。


参考

① 千年間姿を消していた出雲の勾玉(参考)

玉造温泉は山陰有数の温泉として有名ですが、歴代天皇の皇位継承のしるしとして受け継がれてきた三種の神器「八咫鏡やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」の一つである勾玉の産地としても有名です。

我が国の勾玉の歴史は古く、3000年程前の縄文時代から新潟地方でヒスイを素材として作られていたそうです。

出雲の勾玉は古墳時代前期(紀元300年頃)から玉造温泉の東側にある花仙山で採れるメノウ(瑪瑙)を素材として造られ始め、特にこの地方独特の濃い緑色の青メノウ(碧玉)の勾玉が好評で、古墳時代の後半には出雲の勾玉は朝廷への献上品として唯一指定されるとともに、埴輪に多く見られるように当時一般の装飾品としても普及しだした勾玉を全国でほぼ独占していたようです。

しかしながら奈良時代になって、仏教の普及とともに勾玉を装飾品とする習慣がなくなり、平安時代には出雲の勾玉は完全にその姿を消してしまいました。

ちなみに玉造温泉の開湯は奈良時代で、当時はまだこの地方に数多くの勾玉作りの職人が住んでいたことからこの名前がつけられたそうです。

江戸時代の終わり近く、花仙山にはまだ多くのメノウが埋蔵されていることから、玉造温泉の住民伊藤孫四郎が、地場産業の復興を目指して、当時玉の細工が盛んであった越前に行って細工の技術を学んで出雲に持ち帰り、玉造の地に1000年振りに勾玉が復活しました。

明治の中頃には村の各所で勾玉をはじめとするメノウ細工が行われていたようですが、現在では「いずもまがたまの里伝承館」が唯一出雲の勾玉の製作を継承して、伝承館とその系列工房で勾玉をはじめとしたメノウの各種アクセサリーや置物等の生産販売を行うとともに、メノウ細工の教室も開かれています。

花仙山のメノウには前述の青メノウの他に赤メノウ・白メノウまた色が混じりあっているものなど多彩なものがあるので、教室で教えてもらって、好みの色の自分だけのアクセサリーを作ってみるのも一興だと思います。

(情報 千田)

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② 玉造温泉の花仙山(参考)

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玉湯町近くにそびえる「花仙山(かせんざん)」は古墳時代から良質なめのうの産地で、全国で唯一「青」「赤」「白」三色全てのめのうが採掘できる貴重な場所です。中でも青いめのうは「出雲石」と呼ばれており、新潟の翡翠と並んで有名な国産石となっています。

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花仙山と玉造温泉

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島根県松江市玉湯町玉造


③ ヒスイの勾玉(wikiより)

ヒスイ製勾玉(ヒスイせいまがたま)は、勾玉のうちヒスイ(翡翠)でできているものをさす。

日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物とされる。北海道の美々4号遺跡ヲフキ遺跡、青森の三内丸山遺跡亀ヶ岡遺跡、新潟糸魚川長者ヶ原遺跡、長野の離山遺跡などから出土しており、縄文中期(BC5,000年)頃から作られていた。

特に長者ヶ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともにヒスイ加工工房も見つかっている。蛍光X線分析により三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが糸魚川産であることがわかっており、縄文人が広い範囲で交易していた事実を示すと考えられている。

朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されている。このことから、戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと解釈していたが、戦後に至り、一時期、朝鮮から日本へ伝来したものという新解釈を提唱する学者も現れた

しかし、勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった。

中国の『後漢書』では「"出白珠青玉"(倭では真珠と青い玉が採れる)」と記されてあり、『魏志倭人伝』によると、「壱与が魏に2つの青い大きな勾玉(孔青大句(勾?)珠二枚)を献上した」と記されている。また、『隋書81巻 列伝46』 によると、「新羅と百済は倭を珍しい文物の多い大国と崇め、倭へ使いを通わしている」と記しており、勾玉とくにヒスイ製勾玉が交易品として重要な意味を持っていたことがうかがわれる。


④ 三種の神器(参考)


オーパーツの産地だった玉造温泉(参考)

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考古学上それを生み出した時代や文化・文明のレベルに合わない加工技術で製造された出土品で英語の「out-of-place artifacts」を略した造語であり日本語では「場違いな工芸品」などと訳されています。

世界各地に存在しているオーパーツですが、日本にも存在しています。どんな物なのでしょうか?

それは皆さんもよくご存知の勾玉(まがたま)です。

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↑勾玉(いずもまがたまの里伝承館(松江市)にて撮影)

勾玉は最も古いものは縄文時代の遺跡から発見されており日本古来の装身具の一つとされています。

では、なぜ勾玉がオーパーツなのでしょうか?

勾玉には紐を通したとされる小さな丸い穴があいています。ここにその秘密が隠されています。勾玉は翡翠(ひすい)で作られることが多いのですが大変硬く物質の硬度を表わす単位「モード」の数値が「7」だそうです。モード7と言うのは鋼鉄に傷を付ける事が出来る硬さでありダイヤモンドカッターで加工する場合でも非常に困難な硬度だそうです。しかも穴は綺麗な円を描いています。

電動工具もなかった時代にどのようにして穴をあけたのでしょうか?不思議ですね~

今なおどのようにして加工したのか解明されていないそうです。


⑥ 勾玉のディザイン(参考)

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