但馬国府 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

{C422354A-9F27-44AF-B0A1-109F04E3F1F3}
ピンク丸が発掘現場、ピンク四角が国府の範囲、黄丸が祢布ケ森遺跡

{D6183093-F34F-4DC0-9226-81B5871792CF}
祢布ケ森遺跡

{C7AD0155-4C48-4652-B52D-1452E69BBA62}
兵庫県豊岡市日高町祢布920


参考

但馬国府は広大だった 新発見で想定面積は2倍に

神戸新聞(2017/05/26、参考)

史書「日本後紀」などに登場する但馬国の役所「但馬国府」について、兵庫県豊岡市教育委員会は、国府の跡地とされる豊岡市日高町の「祢布ケ森遺跡」が、これまでの想定より2倍近い面積だったとみられると発表した。新たな発掘調査で、同遺跡の南端とされた位置より200メートル南に、役所の建物6棟分の柱の穴が見つかったため。新発見により、従来以上に広大な国府の姿が浮かび上がった。(阿部江利)

{8AD34584-28E3-415D-A0A5-42D8DB126ED9}
但馬国府の役所跡とみられる柱の跡が見つかった発掘調査の現場=豊岡市日高町岩中

但馬国府は、現在の県庁にあたる施設。「日本後紀」には、平安時代初めの804年に、別の場所から移転したと記されている。発掘調査は1951年、民間の建物調査で遺跡が見つかったのを機に始まった。国府の場所が特定できない時期が続いたが、現在は同市日高総合支所西側を中心とする同遺跡周辺が、国府の移転先だと考えられている。

市教委は今年4月17日から、同支所から南約200メートルにある福祉施設の建設予定地(同市日高町岩中)を調査。約450平方メートルの範囲で、直径50~100センチの柱の穴が39カ所見つかった。いずれも9世紀後半の建物跡と推定され、正確に東西や南北の方向に合わせて並び、穴の間隔も一定の幅で整っている特徴から、役所跡と分かった。建物は最大で長辺5・4メートル、短辺4・8メートルの規模という。

国府はこれまで、同支所を南端に、東西、南北いずれも200メートルほどの範囲だったと考えられてきたが、今回の発見で、さらに200メートル南までが役所の敷地だった可能性が高まった。

穴の中に柱がほとんど残っていないため、市教委は使われた期間は20年以下で、柱ごと移されて再利用されたのではないかとみている。市教委の小寺誠文化財室長(56)は「新たな発見で、役所としての規模が大きい、威容を誇った国府だったと分かる。調査の範囲も見直したい」と話す。

同町岩中での発掘調査は6月前半まで続ける。夏ごろには、成果を知らせる「速報展」を市立歴史博物館(同市日高町祢布)で開く予定。