小山田遺跡の巨大方墳、蘇我蝦夷の墓か! | 日本の歴史と日本人のルーツ

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小山田遺跡は飛鳥時代で最大級の方墳の可能性が高まった。被葬者像は7世紀前半に即位した舒明天皇か、乙巳の変(645年)で滅ぼされた豪族の蘇我蝦夷(?~645)との見方が出ているとか!

この辺りは、飛鳥寺あたりの遺跡や蘇我馬子の石舞台古墳と関連し、当時最も権勢を振るった蘇我蝦夷の墓と著者は確信している。当時の蘇我氏は天皇として振舞っており、当然、現天皇家の祖先の舒明天皇より大きな墓で当然である。

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中央が小山田遺跡、奈良県高市郡明日香村川原410

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奈良県立明日香養護学校、建て替えに際しての発掘調査で遺跡を確認

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県道155号から見上げる。

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校舎建て替え前の県立明日香養護学校

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校舎建て替え前の県立明日香養護学校


参考

① 謎の
遺跡、未知の巨大古墳だった 被葬者は蘇我蝦夷かも

朝日新聞(2017.3.2、参考)

飛鳥時代の巨大な石張りの掘割(ほりわり、濠〈ほり〉)が出土した奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡で、石の抜き取り穴や排水溝など古墳の横穴式石室の痕跡とみられる遺構がみつかった。県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)が1日発表した。遺跡が7世紀中ごろに築造された未知の古墳だったことが確定し、「小山田古墳」と命名された。

一辺約70メートルの飛鳥時代で最大級の方形の古墳の可能性が高まった。これほど巨大な未知の古墳の発見は異例。被葬者像をめぐり、7世紀前半に即位した舒明(じょめい)天皇(593~641)か、乙巳(いっし)の変(大化改新の発端、645年)で滅ぼされた豪族の蘇我蝦夷(そがのえみし、?~645)との見方が出ている。

2014年に県立明日香養護学校の校舎建て替えに伴う発掘調査で、多数の石材が張りつけられた掘割が出土。古墳の濠や居館、庭園などの見立てがあった。

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飛鳥地域の古墳の変遷


 一辺70m、全国最大級の巨大方墳…明日香村

読売新聞(2017.3.2、参考)

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出土した羨道跡の一部。石の抜き取り穴(手前)と排水溝が確認された(1月15日、奈良県明日香村で)

大規模な石敷きの濠(ほり)が2014年度の調査で出土した奈良県明日香村の小山田(こやまだ)遺跡(7世紀中頃)で、古墳の横穴式石室に入る通路「羨道(せんどう)」跡が見つかったと、県立橿原考古学研究所が1日、発表した。

調査成果を総合すると、同遺跡は1辺約70メートルの全国最大級の方墳だったことが判明し、同研究所は「小山田古墳」と名付けた。飛鳥時代では破格の規模で、被葬者は天皇(大王)級の人物だったことが確実となった。

1・2~1・4メートル大の石を抜き取った痕跡(穴)が2・6メートル離れて2か所確認され、羨道の両壁とみられる。羨道の中央付近を通る排水溝の一部も見つかった。

14年度の調査で濠が見つかった場所は、古墳の北辺に当たるとみられ、今回その南方約67メートルで羨道跡が見つかったことなどから、約70メートル四方の方墳と判明した。


③ 小山田古墳:巨大方墳に驚き…研究者ら「天皇」、「豪族」

毎日新聞(2017.3.3、参考)

飛鳥時代最大級の方墳と判明した小山田古墳。一辺約70メートルという破格の大きさに研究者は驚きを隠さない。被葬者は初の官寺建設や遣唐使派遣などで知られる舒明(じょめい)天皇か、それとも天皇をしのぐ権勢を振るった豪族・蘇我蝦夷(そがのえみし)なのか。

飛鳥時代の大型方墳は、推古天皇陵とされる山田高塚古墳(大阪府太子町、長辺約60メートル)、石舞台古墳(明日香村、一辺約50メートル)などがある。当時の権力中枢からは離れるが、千葉県・龍角寺岩屋古墳は一辺78メートルある。

奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が新たに発見した石室通路(羨道(せんどう))の幅は約2・6メートルあり、石舞台古墳(2・1~2・6メートル)に匹敵する。小山田古墳が築かれたとみられる7世紀前半について、菅谷文則所長は「他の古墳が縮小していく時代に巨大な方墳を造れたのは天皇しかいない」と指摘し、舒明天皇の初葬地説を取る。木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)も「大寺を造るなど国家形成の歴史の中で画期となる人物」と指摘。今尾文昭・関西大非常勤講師(同)は石室通路の石を抜き取った跡に着目して「抜き取り穴が丁寧に埋められている。改葬後にも公的管理が続いた印象がある」とし、討たれた蝦夷の墓とは考えにくいとみる。

一方、前園実知雄・奈良芸術短大教授(同)は「舒明天皇は火災で飛鳥岡本宮から別の宮へ移った後、二度と飛鳥に戻らなかった。飛鳥の中心地に墓を造るとは考えにくい」と反論し、蝦夷説を推す。日本書紀は、蝦夷が642年に自分と息子入鹿の「双墓(ならびばか)」を造り、「大陵小陵」と称したと記している。

白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(同)は、小山田古墳は蝦夷、入鹿父子が邸宅を建てた甘樫丘(あまかしのおか)から南方に延びる丘陵にあることを指摘。「一帯は蘇我氏の根拠地。大王墓より大きな墓となれば、7世紀の政治史を解き明かす大きなヒントになる」とする。塚口義信・堺女子短大名誉学長(日本古代史)は、古墳の盛り土から見つかった瓦の破片が、蝦夷・入鹿の邸宅と関連があるとされる甘樫丘東麓(とうろく)遺跡の出土品と同型である点に注目する。「蘇我氏に有利な資料。西隣の菖蒲池(しょうぶいけ)古墳と併せて大陵小陵と考えたい」と話す。【矢追健介、皆木成実】

小山田古墳築造前後の出来事

592年推古天皇が即位
626年蘇我馬子死去
628年推古天皇死去
629年蘇我蝦夷らの後押しで舒明天皇が即位
630年舒明天皇が初の遣唐使送る
639年舒明天皇が初の官寺、百済大寺建設を命じる
641年舒明天皇死去
642年皇極天皇が即位
〃 舒明天皇を滑谷岡に葬る
〃 蝦夷が息子入鹿との双墓を造る
643年舒明天皇を押坂陵に改葬する
〃 入鹿が聖徳太子の子の山背大兄王を自害させる
644年蝦夷と入鹿が甘樫丘に邸宅を建設
645年乙巳の変で蝦夷、入鹿が滅ぶ