九州の聖なるライン | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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太宰府天満宮の位置の根拠は道真公の御遺骸を牛に引かせて運ぶ途中、牛が動かなくなったところとされる。聖なるラインのネットワークを見ると、香椎宮から沖ノ島に至るラインと、宝満宮竈門神社から防府天満宮に至るラインの交差点になっていた。やはり牛車を引かせて聖なるラインを探したのであろう。

久留米の高良大社の南北ラインと宝満宮竈門神社から宇佐神宮の東西ラインが直交していた。

福岡市の住吉神社、筥崎宮、そして香椎宮が一直線に並び、下関の南北ラインの北端の東門鎮護住吉八幡宮にまで至っていた。実は筥崎宮は当地に遷座する直前の一時期、関門海峡を護る西門鎮護の役割が与えられていた。また、糸島市志摩の桜井二見ヶ浦の夫婦岩がこれら三社の相互の位置を確定させる役割があった。

熊本の阿蘇神社は六所宮・與止日女神社方向と英彦山神宮・香春神社方向からネットワークに接続されている。佐賀の與止日女神社は宝満宮竈門神社・大分八幡方向へ接続されている。

飯塚の大分八幡宮は聖なるラインで大元神社(宇佐神宮奥宮)と筥崎宮を直接に結びつける位置にある。筥崎宮の元宮とか宇佐神宮の本宮との位置付けは、このことであろう。

南九州の天孫降臨の地では、高千穂神社と天の逆鉾のある高千穂峰(山麓に霧島神社)が遠く離れていることが面白い。さらに、天岩戸はあるが高天原は無く、吾平山上陵など多くの聖蹟に複数候補地がある。高千穂神社と宮崎神宮の間にも齟齬がある。記紀を誤解して作られた神社・聖蹟の群と思われ、明治維新前後に薩摩藩が大急ぎで社殿を造営した時の苦労が伺える。

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① 白楕円: 東門鎮護住吉八幡宮
② 赤楕円: 二見夫婦岩: 北緯34度14分、西に沖ノ島
③ 青四角: 足立山妙見宮から一宮神社までの神社群
④ 緑丸: 宮地嶽神社、東の四国の石鎚神社方向へ
⑤ 白丸: 香春神社
⑥ 青楕円: 宇佐神宮と大元神社、北北西上方向の延長に軽島豊明宮(現在の下関市梅ケ峠)
⑦ 黒大楕円: 住吉神社と筥崎宮と香椎宮
⑧ 黄楕円: 太宰府天満宮と宝満宮竈門神社: 防府天満宮へ伸びる
⑨ 緑楕円: 英彦山神宮
10 赤丸: 高良大社
11 黒四角: 六所宮
12 黒丸: 香椎宮
13 白四角: 宝満宮竈門神社: 東は宇佐神宮、南は高良大社、南西は太宰府天満宮
14 黄四角: 大分八幡宮
15 緑四角: 與止日女神社: 大分八幡宮から宝満宮竈門神社への延長
16 青丸: 阿蘇神社
17 青線: 筥崎宮・大分八幡宮・大元神社(宇佐神宮奥宮)

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18 赤丸: 桜井二見ヶ浦の夫婦岩→沖ノ島
19 黄四角: 香椎宮→香春神社
20 緑四角: 筥崎宮→大分八幡宮→大元神社(宇佐神宮奥宮)
21 青四角: 住吉神社→英彦山神社

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② 赤楕円: 二見夫婦岩: 北緯3414分
⑨ 緑楕円: 英彦山神宮
22 黒楕円: 高千穂神社、北東に天岩戸
23 黒四角: 高千穂峰(+天の逆鉾)、南西山麓に霧島神社
24 青丸: 新田神社、近くに可愛山陵
25 黄丸: 宮崎神宮
26 緑四角: 鵜戸神宮


参考

① 関門海峡を護る神社

①-1 東門鎮護住吉八幡宮(参考)


①-2 関門海峡の入り口を護る神社(参考)

日本西門鎮守八幡宮、亀山神社、宗甲八幡宮など、923年、西門鎮護の機能が筥崎宮から移された。


①-3 筥崎宮(wik iより)

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祭神: 応神天皇【八幡大神】、神功皇后、玉依姫命

創建に関しては複数の説があるが、公式サイトでは延喜21年に建立された説が紹介されている延喜21年(921年)6月21日に八幡神の託宣があり、応神天皇・神功皇后・玉依姫命を祭神として筑前国穂波郡大分宮玄界灘に面した土地に移したのに始まる延長元年(923年)に現在地に遷座。『延喜式神名帳』には「八幡大菩薩筥崎宮一座」と記載され、名神大社に列している。元寇の際に亀山上皇が「敵国降伏」を祈願し、神門に「敵国降伏」の扁額が掲げられた。以来、海上交通・海外防護の神として信仰されている。


② 大分八幡宮、飯塚(wik iより)

『筥崎宮縁起』(石清水八幡宮記録)によれば、平安時代延喜21年(921年)箱崎浜(現福岡市東区箱崎)への遷座の託宣があって、延長元年(923年)に遷座したのが筥崎宮の始まりであるとし、宇佐神宮の託宣集である『八幡宇佐宮託宣集』にも筥崎宮の神託を引いて、「我か宇佐宮より穂浪大分宮は我本宮なり」とあるが、筥崎宮へ遷座した後も九州五所別宮の第一社として篤く信仰されていた。


③ 宮崎神宮(wik iより)

古くから鎮座していたのは確からしいが上古の由緒は不明で、文献上の初見は鎌倉時代初めまで降り、当地の地頭職にあった土持信綱が現在地に社殿を造営し、皇宮屋(こぐや)(現 境外摂社)から建久8年(1197年)に遷座したという記録である。『神皇正統記』に神武天皇が「日向の宮崎の宮」から東征したと記すように、中世には東征以前に宮崎に帝都があったとする説も定着し、当宮をこれに充てるようになったと思われ(古事記』に載せる高千穂宮高千穂神社)に擬する説もある)、以後神武天皇に対する崇敬から、歴代の領主により深く崇敬された。


④ 高千穂神社(wik iより)

高千穂は日向三代の宮である高千穂宮が置かれた地と伝えられるが、天孫降臨伝承と在地固有の信仰が融合し、更に熊野修験も加わるなど複雑な信仰を包含する。また、古来より当神社の春祭りに対して槵触神社では秋祭りを行うなど、同神社とは密接な関係を持つものでもあった。


⑤ 高千穂峰(wik iより)

天照大神の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が、葦原中国の統治のために降臨(天孫降臨)した山であるとされる。なお、天孫降臨の地を宮崎県北部の高千穂町域に比定する説もある。


⑥ 新田神社(wik iより)

社伝によると「天津日高彦火邇邇杵尊」(ニニギノミコト)の墓を祀ったのが創始」とされるが、新田神社のことを書いた最も古い史料は永万元年(1165年)のもので、これには「貞観のころに再興」とあり、また「藤原純友の乱のときに国家鎮護を祈願し5か所建てた八幡宮の一つ」とする史料もある。『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている。


⑦ 鵜戸神宮(wik iより)

主祭神: 日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)

創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。

注: 記紀以外の偽書と言われる古史では、ウガヤフキアエズは1人では無く、何十代にも続く王朝名とされている。