浅草六区 | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

ご質問などはコメント欄にお書きください。

学術研究の立場にあります。具体的なご質問、ご指摘をお願いいたします。

著者が就職して上京した昭和50年(1975年)には浅草六区は伝説の地域であった。仕事でこの辺りを歩いたことはあったが、気が付かずに通過してしまった。

ビートたけしの古巣、ストリップ小屋の浅草フランス座はここ浅草六区に営業していた。
 {30750B18-DC10-48B8-A030-846A71511957}
浅草六区

{8F7CA6DA-D460-40AC-B5DF-2D1BE3DD193F}
左に浅草ロック座


参考

① <あのころ>にぎわう浅草 六区の映画街

共同通信(2017.1.2、参考) 

{60E88249-E9C2-4586-86AD-0DF0921C017C}1950(昭和25)年1月2日、東京随一の繁華街として古くから栄えてきた浅草。仲見世の商店街や、寄席、劇場、映画館が立ち並ぶ浅草六区の正月は、あふれんばかりの人の波となった。60年代に入ると歓楽街は新宿、渋谷、池袋に取って代わられた。


② 浅草六区(wikiより)

{DE42813E-BFBE-4C3E-850E-0AD9DC5676C7}
映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、1937年(昭和12年)1月  左 - 松竹館 池田義信の旧作『わが母の書』(1936年(昭和11年)12月作品)、伊藤大輔の旧作『あさぎり峠』(1936年(昭和11年)10月作品)ほか上映中  右 - 常盤座 アチャラカ演劇一座「笑の王国」(古川緑波菊田一夫退団後)上演中

浅草公園六区(あさくさこうえん ろっく)は東京都台東区浅草にある日本の歓楽街である。通称浅草六区。1884年(明治17年)以来の名称である。

{BA612B4F-A0D3-4250-BA81-1F1D148E029E}
凌雲閣十二階、手前は大池、凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京浅草にあった12階建ての浅草凌雲閣は12階建てだったことから「浅草十二階」とも呼ばれた関東大震災で半壊し、解体された。

1873年(明治6年)1月の「太政官布達第十六号」により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)に一区から七区までに区画された(地元からの申し出を受け公園指定を受けた場所には他に上野公園などがある)。この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池(ひょうたん池)を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街を形成した。

途中省略

高度成長期と呼ばれた1960年代に入りテレビ時代を迎え1964年(昭和39年)10月10日東京オリンピック以降、新宿渋谷六本木など城南方面に若者の文化が芽生え浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎える。

途中省略

しかしながら、2012年9月から10月にかけて、浅草六区にとって最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、すべての映画館が消え去った。


③ 明治40年の浅草公園(国立国会図書館  写真の中の明治・大正から転載、参考)

{C24EE0FF-6DDA-4C8F-934C-015DC40B5745}
浅草六区は中央左手の池の左側


④ 浅草フランス座(wikiより)

浅草フランス座演芸場東洋館(あさくさフランスざえんげいじょうとうようかん)は、東京都台東区浅草公園六区に所在する演芸場東洋館の通称で営業している。東洋興業株式会社経営。かつては長い間ストリップ劇場として営業していた。

北野武は、ここですさまじくキレのあるコントを演じていた「浅草の師匠」こと深見千三郎に弟子入りし、芸人への第一歩を踏み出す。エレベーターボーイをしながらコントやタップダンスを学んだ。また、兼子二郎(後のビートきよし)と出会い、後の漫才ブームの牽引役となる「ツービート」結成のきっかけとなった場所でもある。