著者が就職して上京した昭和50年(1975年)には浅草六区は伝説の地域であった。仕事でこの辺りを歩いたことはあったが、気が付かずに通過してしまった。
ビートたけしの古巣、ストリップ小屋の浅草フランス座はここ浅草六区に営業していた。
浅草六区
参考
① <あのころ>にぎわう浅草 六区の映画街
1950(昭和25)年1月2日、東京随一の繁華街として古くから栄えてきた浅草。仲見世の商店街や、寄席、劇場、映画館が立ち並ぶ浅草六区の正月は、あふれんばかりの人の波となった。60年代に入ると歓楽街は新宿、渋谷、池袋に取って代わられた。
② 浅草六区(wikiより)
映画館が立ち並ぶ浅草六区の歓楽街、1937年(昭和12年)1月 左 - 松竹館 池田義信の旧作『わが母の書』(1936年(昭和11年)12月作品)、伊藤大輔の旧作『あさぎり峠』(1936年(昭和11年)10月作品)ほか上映中 右 - 常盤座 アチャラカ演劇一座「笑の王国」(古川緑波、菊田一夫退団後)上演中
凌雲閣十二階、手前は大池、凌雲閣(りょううんかく)は、明治期から大正末期まで東京・浅草にあった12階建ての塔。浅草凌雲閣は12階建てだったことから「浅草十二階」とも呼ばれた。関東大震災で半壊し、解体された。
1873年(明治6年)1月の「太政官布達第十六号」により、浅草寺境内が「浅草公園」と命名され、1884年(明治17年)に一区から七区までに区画された(地元からの申し出を受け公園指定を受けた場所には他に上野公園などがある)。この時浅草寺裏の通称・浅草田圃の一部を掘って池(ひょうたん池)を造り、池の西側と東側を築地して街区を造成。これが第六区となり、浅草寺裏手の通称奥山地区から見せ物小屋等が移転し歓楽街を形成した。
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高度成長期と呼ばれた1960年代に入りテレビ時代を迎え1964年(昭和39年)10月10日の東京オリンピック以降、新宿、渋谷、六本木など城南方面に若者の文化が芽生え浅草公園六区は急激な地盤沈下を迎える。
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しかしながら、2012年9月から10月にかけて、浅草六区にとって最後の映画館であった5館が相次いで閉館され、すべての映画館が消え去った。