幻の池を復元する、金閣寺 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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金閣寺の境内の南部に“幻の池”が存在した。京都府教育委員会が復元するとか!

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金閣寺と幻の池(赤丸)

金閣寺の境内は元々は西園寺家の北山山荘の跡地で、西隣りに立命館大学西園寺記念館(衣笠セミナーハウス)が現在ある。

西園寺家の菩提寺であった竹林院西園寺は現在は寺町鞍馬口下ルにありますが、室町時代前期までは鹿苑寺(金閣)の地にありました(参考)。


参考

① 京都・金閣寺に“幻の池”が存在か 京都教委6年がかりで調査、復元へ

産経ニュース(2017.7.18、参考)

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雑木林(円付近)に別の池が存在する可能性が高いという金閣寺=平成28年12月、京都市北区(本社ヘリから)

京都府教育委員会は18日、世界遺産の金閣寺(京都市北区)で、舎利殿・金閣の前に広がる鏡湖池(きょうこち)の南側に別の池が存在していた可能性が高いとして、平成29年度中に発掘調査を実施すると発表した。幻ともいえる池の全体像を確認できれば、詳細に検討した上で復元作業に入る。完成は33年度を見込んでいる。

金閣寺は室町幕府3代将軍・足利義満が応永4(1397)年、西園寺家の北山山荘の跡地に造営した北山殿が始まり。3層の建物の外壁に金箔(きんぱく)が貼られた金閣と、面前に広がる鏡湖池を中心とした庭園は、国の特別史跡・特別名勝に指定されている。

府教委文化財保護課によると、同寺が所蔵する境内を描いた江戸時代の絵図面の中には鏡湖池の南側に別の池が示されている。同池の南側は現在、約6千平方メートルの雑木林になっているが、池の存在を示唆するくぼ地が確認できるという。

このため、同課は発掘調査を計画。今年度は6カ所で計130平方メートルのトレンチ(試掘溝)を入れ、池の痕跡を確認する。池が見つかれば範囲を広げて詳細に調査を行い、整備方針を検討して復元作業に入る。

同課は「池が確認されれば、さらに詳細に調査を行った上で金閣寺側や専門家とも調整して、寺の全体の景観に見合うようなものに復元していきたい」と話している。


② 金閣寺に南の池があったことは前から分かっていた(参考)

作家水上勉の新聞の切り抜きに『金閣寺に“南の池”あった』と言う五段抜きの縦見出しに、『広々、江戸中期まで絵図をたより、実地検証』の横見出しが添えられた写真と古い絵図面入りの記事があった。

『年間百万人の観光客を集める京都有数の観光地、金閣寺の庭の中央池・鏡湖池には江戸時代中期頃までは今の池の南側にも池が広がっていたことが、江戸時代の絵図を調べていた研究者によって発見された』と記事は伝えている。

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③ 金閣寺で幻の池見つかる 江戸時代の絵図にだけ描かれる

共同通信(2018.10.11、参考)

金閣寺(左奥)の前にある鏡湖池の南側で見つかった別の池跡(人物の右側)=11日午後、京都市

京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)は11日、金閣の前にある鏡湖池の南側で、別の池跡(東西約76メートル、南北約45メートル)が見つかったと発表した。江戸時代の絵図「北山鹿苑寺絵図」だけに描かれた「幻の池」で実態がよく分かっていなかった。室町幕府3代将軍足利義満が山荘「北山殿」を整備した14世紀末に造成されたとみられ、金閣寺の変遷を知る手掛かりとして注目を集めそうだ。

造成土から出土した遺物も14世紀末のものだった。だが水を張った痕跡はなく、庭園のような空間として活用されたらしい。


④ 金閣寺に足利義満が造成した幻の 発掘調査で

京都新聞(2018.10.11、)

京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。

金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。

南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6~1メートル、幅2~5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6~20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。

ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。

堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467~1477年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。

一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。

北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。

市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。

金閣や鏡湖池の南側で行われた発掘調査。写真手前側で南池跡の堤や建物礎石が見つかった(いずれも京都市埋蔵文化財研究所提供)


⑤ 立命館大学衣笠キャンパス(wikiより)

京都市北区等持院北町56-1に所在する。

1224年(元仁元年)西園寺公経西園寺北山第(山荘)を建てた。14世紀末、室町幕府三代将軍足利義満が、西園寺家から北山第を譲り受けたが、義満の北山第は、西は衣笠山、東は天神川、南は衣笠総門町あたりまで含む広大な敷地であった。北山第が足利義満に譲られた後、西園寺家は再び近くに邸宅を構え、それは15世紀半ばまで衣笠山南麓に存在したとされる。1939年(昭和14年)、立命館大学が現在の衣笠キャンパスの開発に着手したところ、地下約90センチメートル(三尺)の位置から約300年前のものと思われる多数の屋根瓦片が発掘され、屋根瓦には西園寺家の紋章が確認された。さらなる調査の結果、太政大臣・西園寺公経邸のものと推定されるに至ったことから、現在の衣笠キャンパス一帯には、西園寺家の邸宅が建っていたと考えられている

幕末の頃、現在の「衣笠キャンパス」およびその周辺には薩摩藩の藩兵調練場(小松原調練場)、弾薬庫、陣屋、勤番屋敷などを置く広大な緑地が広がっていた。明治維新の「鳥羽・伏見の戦い」では、この調練場の弾薬庫から大量の弾薬等が運び出されたと記録されている

1939年(昭和14年)、満州国皇帝の愛新覚羅溥儀が立命館に寄付した約50万円のうち20万円で衣笠山の麓に6万坪の土地を購入し、理工系学科の学舎を建設したのが現在の「衣笠キャンパス」の始まりである。この寄付金の残額で学生向けの奨学金の基金も創設された

等持院に隣接していることから、かつては「等持院学舎」と呼ばれていた。昭和20年代にはプロ野球「松竹ロビンス」が本拠としていた衣笠球場が現在の中央広場付近にあり、1954年まで「洋松ロビンス」の準本拠地球場として使用されていた

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金閣寺を含む衣笠の一帯が西園寺家の敷地