印藤聿、またの名を豊永長吉 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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大正8年の唐戸の市役所、警察署、大国神社の北隣りに米穀取引所が見える。

この米穀取引所の創立者がかつての維新の志士の長府藩士、豊永長吉(印藤聿)であった。


参考

① 印藤 聿(のぶる) 生家跡(参考)

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龍馬の支援者たち
印藤聿(いんどうのぶる)

・長府藩士
・龍馬と長府藩府を結ぶパイプ役。(政治的支援者)
・維新後は、龍馬の夢を継ぐかのように財界で活躍し、関門地域の殖産興業に尽力。渋沢栄一らとともに門司の築港も手がけた。(維新後は「豊永長吉」と名乗る。)

坂本龍馬との交友

松浦玲氏の「坂本龍馬と下関」によれば慶応元年正月から5月頃まで龍馬は下関の本陣伊藤家を本拠地として活動していたようであり事実、同年2月10日には妻のお龍を長崎から連れ帰り共に伊藤家に寄宿している。お龍は龍馬の死後も長府の三吉慎蔵宅でしばらく(明治元年3月まで)過ごしている。

三吉慎蔵は長府藩士で伏見の寺田屋の変で龍馬と共に戦い難を逃れた龍馬の盟友であった。この両者を引き合わせたのは、印藤聿で、彼は龍馬の下関滞在時(下関は長府藩領)の保証人のような役割をしていたものと思われる。後の経済人としての活躍には、経済に通じた龍馬からの影響もあったとも言われている。

坂本龍馬全集(宮地佐一郎編)には龍馬から印藤肇(聿)宛の書簡が5通、掲載されており、また、長府博物館には龍馬が彼に餞別として送った愛用の亀山焼の飯腕(飛龍の絵付がある)と湯呑が残されており二人の深い親交を示している。

豊永は生涯、数度名前が替わっています。主な名前を時代順に記すと次のようになります。

下村百合平→印藤弁介→印藤聿→因藤聿蔵→豊永長吉

場所は長府南之町国道9号線から壇具川沿いの道に入り、古串屋の手前のト①の所にある
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壇具川沿いの道
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壇具川
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「説明板正面のお宅」の写真
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② 明治になり企業家として立つ(参考)

明治4年(1871)家を嫡男直臣に譲り帰商して豊永長吉と改名し、同6年には自らが所有する塩田をもとに塩浜問屋を設立し企業家の道を歩み始める。明治9年、下関に赤間関米商会所を設立し頭取となり同年、山口県議会議員にも選出された。

明治10年には旧藩主毛利元敏から旧長府藩失業士族の救済及び家職のことの依頼を受け、銀行業務と商社を兼ねた「豊永組」や「士族就産義社」を士族授産事業として立ち上げた。

さらに明治20年代になると豊永の企業家としての活動は充実し「門司築港会社」「千寿製紙会社」「日本舎密(せいみ)製造会社」などの比較的大規模かついずれもがその業界の嚆矢となる企業の発足に関与した。

このうち「日本舎密(せいみ)製造会社」は長州出身でドイツ公使であった品川弥二郎から「塩変じて薬となる、当時文明国に於ては此工業がなかなか盛んである」と曹達工業の必要性を説く書状を受け取り自身の持つ塩田に着目しその近隣に位置し、また産炭地もひかえる厚狭郡須恵村字小野田(現小野田市)の地に工場設立を決めた会社である。明治23年3月に工場建設に着手し、翌年4月に落成、製造開始した。

豊永は発足時は取締役で明治25年3月に社長に就任したが当初から実質上の経営者であったと思われ、また死の年(明治44年)まで社長のままであった。なお、この日産化学小野田工場が豊永の設立した会社(工場)で唯一現存するものであると思われる。

*舎密(せいみ)・・・オランダ語のセェミカル
英語のケミカル=化学の意味

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東南部(ひがしなべ)町にあった赤間関米商会所の後身赤間関米取引所(大正5年)