下関と大東亜戦争(太平洋戦争) | 日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツ

日本の歴史と日本人のルーツを解明します。

基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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正面: 亀山八幡宮

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岬之町

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入江・細江町

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西細江町

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入江・丸山町

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田中町

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機雷に触れた船

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海上自衛隊呉資料館、機雷46900個が関門海峡に投下されたが、その場所が黒い点で地図に示されている(参考)


参考

①-1 機雷と焼夷弾攻撃(参考)

太平洋戦争当時、米軍が実施したB29による機雷敷設作戦44回のうち、下関海峡を目標にしたのは34回もある。昭和二十年(1945)テニアン北飛行場を基地とする第313爆撃団のB29編隊が深夜幾度となく飛来し、下関海峡の機雷封鎖を継続するために、パラシュート付の機雷を多数投下した。その都度、日本側は掃海して機雷を除去したが、港湾・航路の安全宣言が行われたのは1949年のことであった。

期間 1945年3月27日~8月14日(141日間)
出撃回数 34回(4.1日/回)
出撃機数 延1,200機(35機/回)
損失機数 14機
機雷種類 MK25、MK26、MK36
携行機雷数 徐々に増え、末期で8.8個/機 

また、同年6月28日深夜、門司市街地は第313爆撃団のB29編隊91機により焼夷弾攻撃を受け、市街地の28.8%を焼失した。

さらに、7月1日深夜、下関市街地はグアム北飛行場を基地とする第314爆撃団のB29編隊127機により焼夷弾攻撃を受け、市街地の36%を焼失した。


①-2 下関市内の戦災概況図(6月29日と7月2日)(参考)

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戦災概況図下関(拡大コピー)

昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還しつつあった復員軍人軍属の内地上陸にあたっての質問第一声が、概ねまず戦災概況についてであることを知り、この調査の重要性とその迅速な調整の必要とを痛感した、と述べられています。


② 下関市史抄録(P804-9810、参考)

防衛体制

海軍  下関市吉見に「下関海軍防衛隊」を置き、関門防衛に専任し、関門西口の防衛に当たった。その後、関門海峡を含めた対馬海峡の防衛専任部隊として昭和20年4月10日第七艦隊が編成され、司令部が門司に置かれた。従って下関海軍防衛隊は、同日付けで呉鎮守府舞台から離れ、第七艦隊所属となった。第七艦隊の主力は、関門の防衛を担当する下関海軍防衛隊であって、昭和20年当初同防衛隊の兵力は次の通りである。

下関海軍防衛隊の兵力
本隊 約600人
防備衛所 蓋井島、白瀬、賢女、川尻、波津崎、計5か所、約330人。
特設見張所 角島、六連島、計2か所、約20人。
駆潜特務艇3隻、特務監視艇1隻、汽艇1隻、大発2隻。
防備の対象は、主として敵潜水艦にあったが、対空兵器も25ミリ機銃約57門、13ミリ機銃約11門を陸上に配備していた。 

陸軍 陸軍は関門海峡の防空を担当していた。このため、次により防空戦闘機部隊と高射砲部隊を配備していた。

防空戦闘機部隊
小月に第12飛行師団司令部を置き、戦闘機を次のように配備して関門を含む北九州の防空に任じていた。
小月 飛行第4戦隊
芦屋 飛行第57戦隊
防府 飛行第71戦隊

高射砲部隊
B29が昭和19年6月に北九州に初来襲。その後、高射火器を増強、昭和20年4月には西部高射砲集団長指揮のもと、高射砲36箇中隊210門、照空15中隊90基、機関銃中隊が関門を含む北九州に配備された。


③ 戦争が破壊する下関市の歴史(参考)


④ 唐戸と秋田商会(参考)


⑤ 大東亜戦争で消失する前の下関(参考)