壇之浦合戦の前、源範頼の行動 | 日本の歴史と日本人のルーツ

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1 安芸国から周防国、2 赤間関へ進軍、3 周防国へ戻る、4 豊後国へ進軍、5 葦屋浦の戦いから下関の安岡へ、6 葦屋浦の戦いから門司の田野浦へ


源義経が大活躍する屋島の戦いから壇之浦の戦いの前、源範頼の行動が平氏の行動を抑え、彦島に籠城させることに成功した。

すなわち、源範頼軍は安芸国(広島)から周防国、さらに平氏の拠点の長門国の赤間関あたりまで進軍したが、平知盛に阻まれ、周防国に戻り、豊後国を経由して彦島の背後となる葦屋浦(芦屋)で平氏方と交戦し、勝利した。

この時であろうが、同時に響灘を越えて彦島の北側の安岡あたりに数万人の源氏軍を配備し、また門司の田野浦にも着陣して彦島から壇之浦を包囲することに成功した。これが壇之浦の海上での合戦につながったのである。


参考

① 葦屋浦の戦い(wikiより)

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② 下関市の西海岸(北浦海岸)の安岡あたりは源範頼の数万人の源氏軍で溢れていた(参考)


③ 壇之浦の合戦まで平氏は彦島と大里を根拠地とした(参考)


④ 門司の田野浦の海岸にも源範頼の軍が押し寄せた(参考)


⑤ 長府の忌宮神社は源氏寄りであった(参考)。すなわち、赤間関あたりから彦島、門司の大里に平氏軍は押し込められたことになる。