鑑真和上は赤間関から徒歩で奈良の都に上って行った | 日本の歴史と日本人のルーツ

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関門海峡海岸沿いの旧山陽道が完成する前の古代山陽道は壇之浦から住吉神社方向に北上する住吉道(長府道)であった。

この道を辿って見た。途中に鑑真和上を祀ってあった。何でこんなところに?!まさか鑑真和上一行は山陽道を徒歩で上京したのかな?今まで、鑑真和上は太宰府から奈良の都まで船で上ったと無勉強で思い込んでいた。

wikiなどでは、太宰府から奈良の都までの行程は不明であった。しかし、山陽道を徒歩で上京したと推定する研究を発見した。

この鑑真和上の祠は奈良時代の記憶を留めているのであろうか?!

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正面下が赤間関

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北上方向

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途中に祠

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鑑真和上とあった

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見た感じはお地蔵さん?!


参考

① 鑑真和上の来日

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② 鑑真一行は、
太宰府から平城京に山陽道を通った(参考)

二月一日④到④難波(難波驛・國師郷)」。(「難波驛・國師郷」は、実際には摂津国兎原郡の「葦屋驛・賀美郷」のことになるようです。)

これは畿内に入ってからのことですが、延慶師に引率された鑑真一行は、2月1日、山陽道は葦屋驛に至り、摂津国の兎原郡賀美郷に至った。「驛(うまや)に着き、郷(里)に宿る」という形容は、驛馬が伝馬を兼ねている山陽道ならではのことで、鑑真一行が驛鈴と伝符を携えていたことを伺わせます。


③ 奈良時代の山陽道は関門海峡沿岸では無く、内陸を通過し、江戸時代の長府道(住吉道)が山陽道であった(参考)

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赤線が古代山陽道


④ 赤間関(現下関市唐戸)が古代山陽道の起終点であり、臨門駅(平安時代の臨海館)であった(参考)

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現在の中国自動車道(山陽自動車道と共通)のルートとほとんど重なっていることに注目して欲しい!