白村江の戦いの敗戦後に大急ぎて朝鮮式山城や水城が作れたのは牛馬のおかげ | 日本の歴史と日本人のルーツ

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基本的に山口県下関市を視座にして、正しい歴史を探求します。

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古代の古墳、朝鮮式山城、水城などの土木作業について、人力の手作業では無く、牛馬を使役したと考えた方が素直である。牛馬は遅くとも古墳時代には存在して、農作業、運搬、軍用の他、水田、道路そして城の築造などの土木作業に牛馬がつかわれていた。

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牛耕用鞍と馬耕用鞍(参考)

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我が家にあった牛耕用鞍(鉄釘などを使わない木組み)

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牛のワラジ

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長門一宮、住吉神社のお田植え祭

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明治期の馬耕


参考

① 応神天皇の15年に百済から良馬2匹を導入(参考)

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② 弥生時代以降、朝鮮半島経由で牛馬が入ったようだ(参考)

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③ 古代の牛、特牛牛、見島牛について(参考)


④ 古代の馬について(参考)


⑤ 日本の古代馬の通説(参考)

・縄文晩期や弥生時代の遺跡から馬骨や歯が出土したことから、わが国への渡来はこの頃からといわれていたが、現代の年代測定法では、後代の骨が混入したものとされている。

・日本在来馬の起源については、東北アジア由来の中型馬と東南アジア由来の小型馬という大きさによる分類法である「二派渡来説」が提唱されてきた。一方,最近の年代測定法やDNA系統解析などの研究結果から、日本在来馬は4、5世紀の古墳時代に朝鮮半島から渡来して、人の交流によって各地に広がったと考えるのが妥当とされ、定説になってきている。有名な『魏志』の倭人伝には「其地無牛馬虎豹羊鵲」とあるように、日本には馬がいないと記述されているが、最近の研究は『魏志』の記載を裏付けるものになってきている。

・現在保存されている在来馬は8種である。体高により、中型馬(約130cm)は北海道和種(北海道)、木曽馬(木曽地方)と御崎馬(宮崎県都井岬)の3種で、小型馬(約115cm)は野間馬(愛媛県今治市)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古島)と与那国馬(沖縄県与那国島)の4種であり、このほかに中間型の対州馬(長崎県対馬)がある。現在では全てポニーに分類される。

・日本在来馬はその体型から山道や坂道での歩行に適しており、特に山国であった甲斐では乗用馬や荷駄馬が重視されて軍用に多用された。

・わが国では牛車は使われていたが、馬車を使う習慣はなく、幕末期に横浜居留地の外国人や公使館員によって初めて馬車が使用されるようになった。



⑥ 奈良盆地の古代道、下ツ道の8世紀初めの側溝から牛馬の骨が出土(参考)

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⑦ 東日本は馬、西日本は牛を主に使役した(コトバンクより)

日本の畜産は、縄文・弥生(やよい)期以降における大陸からのウマ、ウシ、ニワトリなどの導入やイノシシの家畜化などに始まる。奈良時代までの日本人は、牛肉、豚肉、牛乳・乳製品などを普通に消費していたが、仏教伝来に伴う肉食禁止令を機に、獣肉消費は支配階級による例外的なものを除いて一般にはみられなくなった。そして東日本ではウマ、西日本ではウシがおもに飼養されたが、その目的は厩肥生産と作業用であった(中世以降普及した農業での役(えき)利用はおもにウシ)。琉球(りゅうきゅう)と九州の一部でのブタ飼養を除き、ブタ、ヤギ、ヒツジの飼養もみられなかった。この日本の無畜農業化の原因を、単に宗教的タブーに求めるのは誤りである。豊かな水産物、採草放牧地の不足および零細な水田経営といった自然的・社会的条件に日本人独特の宗教的価値観が加わり、畜産物を欠く食文化と独自の家畜観が生まれたとみるべきであろう。


⑧ 人と馬(参考)

家畜の代表は何であろうか?見解はいろいろあるが、イヌ、ネコ、ウシ、ウマははずせないだろう。国によってヒツジやブ夕、トナカイ、ラマ、あるいはウサギやモルモッ卜などが重要であることもあるが、上記4種の評価は多くの認めるところであろう。このうちイヌどネコはペットであって、狭義の家畜は、生産動物であるウシやウマを指す。ウシとウマは家畜の双壁といえるが、その最大の特徴は大きいことにある。大きいことはたとえば、人にできない力仕事を可能にする。現代では機械力に依存的になっているために、工事は機械を使うのが当然のように感じるようになったが、人類史を振り返れば、それは「つい最近」である。人類史のほとんどの期間は使役に家畜を使ってきたことを忘れてはいけない。現代の重機は牛馬の延長線上にあるのである。

同じ使役獣でもウシとウマは大きく違う。ウシは力があるが、動きが緩慢である。反芻獣であるから、粗食に耐え、食物を長い時聞をかけて消化し、粘性で臭い糞をする。これに対してウマはなんといっても速く走ることができる。食物の消化は速く、消化率が低いから、馬の糞はパサパサしてあまり臭くない。このような違いは、ウシもウマも農業に使われたが、ウシは使役とともに糞を堆肥作りに用いたのに対して、ウマは使役のほか、移動、運搬に使われたという違いをもたらした。トラクターも自動車もなかった時代、ウマがどれだけありがたい動物であったかは現代人には想像がむずかしい。

ウマの走力は軍事において最も象徴的に発揮された。歩兵と騎馬兵では戦さにならなかった。ウマそのものの走力、大きさが、車輪付きの道具と組合わさったときの運搬力、弓矢や槍などの武具と組合わさったときの破壊力は想像を絶するものだった。モンゴルがユーラシアを席巻したのも、スペイン軍が2桁以上も人数の多いマヤの軍隊に易々と勝利したのも、軍馬がいてこそのことであった。かくして時代を経るにつれて、ウシは農民の家畜に、ウマは軍隊の家畜に変容していった。戦さの在り方がまったく違っていた平安貴族が乗ったのは牛車であったが、近代戦のリーダーたる明治天皇が乗ったのは白馬であったのは、このことを象徴している。


⑨ 豊臣秀吉は8ヶ月で肥前名護屋城を築造した(参考)


10 大宰府政庁を守る水城と朝鮮式山城のネットワーク、羅城(参考)


11 大阪狭山市の狭山池は水城より古く、大規模(参考)


12 土木工事に牛馬に加え、滑車、クレーン、巻き上げ機が使われた(参考)


13 現代の林業における馬の利用について(参考)

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――木を運ぶとなると重機の利用が多いと思いますが、馬搬はどのような点が異なりますか?

「一番の点は重機と違って、馬搬は山に道を作る必要がないということです。15トンくらいの大きな重機を山に入れるとなると、重機が通るための道を作らなくてはいけません。つまり、山を削ることになるので自然へのダメージが大きいのです。土砂崩れの引き金にもなりえます。その点、馬搬は馬が通れる場所があればいいだけなので、環境にも優しいです。また、重機を動かすとなると1台につき軽油が100L以上必要なので、環境への配慮やコストを考えても馬搬の方が有利だと言えるでしょう」

――重機と比べて効率的にはいかがでしょうか?

「馬搬の場合、1日掛けてゆっくり実施したとしても、多い時には長さ4m・直径30cmくらいの丸太を120本分くらい搬出することができます。重機で道を一から作って搬出する手間を含めて考えると、馬搬の方が効率的だと思います」


14 水城は10日で完成した(参考)


15 大仙古墳の築造に基づく馬の輸送力の評価(参考)