古代の大工事として太宰府市の水城が例示されるが、大阪狭山市の狭山池はさらに50年程度古く、4mもより高い土手で水を蓄えていた。さらに特筆すべきは現役で使用されていることである。
香川県の満濃池は水城より40年遅い着工であるが、現役である。
参考
狭山池のダム化工事にともなう埋蔵文化財の発掘調査では、古墳時代から江戸時代までの多くの遺跡が見つかりました。その結果、狭山池は約1.400年前につくられた日本最古のダム形式のため池であることがわかりました。
改修後の狭山池、大阪狭山市、長径997m
② 水城、太宰府市
664年、唐と新羅の攻撃に備えて全長1.2kmにわたり、築かれた大宰府の防衛施設。博多側から南下してくると、太宰府市に入ってすぐに道路や線路を横切る木立におおわれた丘がある。これが664年、唐と新羅の攻撃に備えて築かれた大宰府の防衛施設「水城」である。その規模は全長1.2kmにわたり、基底部で幅80m、高さ13mを越える人工の土塁(堤防)を築き、その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、水を貯えたという。近隣の春日市や大野城市にも、これに連鎖する小規模な水城が残存している。
かんがい用ため池として名実ともに日本一である満濃池の歴史は、大宝年間(701年~704年)にはじまり、讃岐の国守道守朝臣(みちもりあそん)が築いたといわれています。しかし、弘仁9年(818年)に決壊、朝廷の築池使真人浜継(まびとはまつぐ)が復旧に着手しましたが、改修がならず、空海が築池別当(つきいけべっとう)として派遣され、わずか3ヶ月足らずで周囲2里25町(約8.25km)面積81町歩(約81ha)の大池を完成させました。