今の大工さん、特に宮大工は日本古来の尺を単位とする物差しで、木材に墨付けして加工し、組み立ている。最先端のビル建設の設計図の単位はメーターとかインチであろうが、古来の寺社建築には明治以来の外来の単位は不都合であろう。
斑鳩町の法隆寺は再建説、非再建説、移築説などがあるが、変わらないのは寸法、すなわち長さの単位が高麗尺(南朝尺の説もある)であった。現代の宮大工の一集団に日本最古の金剛組があるが、四天王寺や法隆寺を手がけたらしい。彼らは、注文者に応じて日本中を渡り歩き、色々なデザインや伽藍配置の寺社を作った。彼らは発注者の注文に応じるであろうが、長さの単位すなわち寸法だけは現在でもそうであるが彼らの得意なものを固持したはずである。
ところで、太宰府市にある観世音寺であるが、現在のものは再建された小さなものであるが、創建当時は壮大な伽藍であったと言う。この観世音寺の当時の礎石と古絵図を元に、斑鳩町の再建後の法隆寺に使ったと言う移築説がトンデモ説ではあるが囁かれている。九州に複数ある観世音寺様式の寺院(廃寺)の礎石や大宰府政庁の礎石は唐尺と言う寸法で配置されていた!すなわち観世音寺の唐尺と法隆寺の高麗尺は寸法が異なり、作った宮大工も異なる集団であることを示唆し、移築はあり得ない。
元の観世音寺を法隆寺に移築、再建し、新しい観世音寺は小規模のものを礎石から作り直したと主張するトンデモ説のHPを見かけたが、その場合、九州中の観世音寺様式の寺院(廃寺)を全て作り直す必要が出てきて非現実的である。
参考
① 日本最古の宮大工の会社、金剛組が四天王寺を作った
③ 宮大工は日本中を渡り歩いて寺社を作る(参考)
宮大工は国宝や重要文化財になっている古い建物の修理や、寺社の建設を手掛ける専門的な技術をもった大工のことです。伝統的な建築物の屋根や柱、梁〔はり〕などは複雑な形や曲線が多く、高度な技術が必要です。その技術は文化財保存のために必要な技術として国から「選定保存技術」に指定されています。
宮大工のほとんどは「渡り大工」と言われ、ひとつの地域に留まって大工仕事をするのではなく、各地の文化財を渡り歩いて修理をします。かつて宮大工は全国に数100人いましたが、現在では高齢化も進み、50人前後に減少してしまいました。その対策として「伝統建築」を学校教育に取り入れるなど、後継者の育成を試みていますが、厳しい修行の中で技術を伝承しようという若者が少ない事が現状です。
④ 飛鳥寺の建立も同じ宮大工の系統か!(参考)
日本の宮大工の歴史は飛鳥時代に朝鮮から来た慧滋〔えじ〕と慧聡〔えそう〕という僧侶が飛鳥寺を建てた事に始まります。これと同時期に聖徳太子も朝鮮から来たこの二人の僧侶から教えを受け、法隆寺などに代表する歴史的建造物を建立したと言われています。今でも宮大工の間では聖徳太子は神様として拝まれています。このように昔は僧侶が自身の寺社の建築や修理にたずさわり、宮大工の仕事をしているケースが多かったようです。
⑤ 観世音寺、太宰府
⑤ 法隆寺は古い様式で、かつ高麗尺で建てられている(wiki)
法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。(関野貞)
薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。(関野貞)
川端俊一郎は法隆寺の物差しは高麗尺ではなく、中国南朝尺の「材」であるとしている。
⑥ 寺社建築は初期は高麗尺と唐尺を使い分けたが、後に唐尺が常用尺になった