大宰府政庁を守るため水城、土塁、大野城、基肄城を結ぶ砦があり、これを大宰府羅城と呼んでいる。そして、大宰府羅城の想定線は大野城や基肄城などの山城の頂点と、大宰府政庁のある盆地から流出する河川を遮る水城や土塁を連結した様に見える。ただし、東側の宝満川水系と北側の御笠川の水源(糟屋郡宇美町との境)あたりには水城や土塁が残って居ない。
東側の宝満川水系あたりは大陸から見れば裏口であり、水城や土塁の建設が無くてもおかしくない。しかし、北側の糟屋郡宇美町との境は、さらに玄海灘につながっており、大陸からの外敵の浸入の怖れがあるのに、水城や土塁が見当たらない。
現在、羅城を構成する水城や土塁は大宰府政庁から外方向に流出する河川を堰き止めて溜池にして、土手を壊して浸入する外敵を水や泥濘で阻止することを目的としたと考えられる。すなわち、宇美町との境の御笠川上流に水城や土塁を建設しても適当な水源が無く、また、どうにか建設したとしても外敵が土手を破壊した時に濁流が大宰府政庁側に流れ込む怖れがある。だから、水城や土塁を作らなかったのである。
以上の分析から、現存する水城や土塁は水をある程度貯めた池や泥濘の水田を伴ったものであったことが考えられる。すなわち、土で防衛するというより、水城や土塁の前後の水で防衛すると考えられる。また水城の無いところは兵力で守ったのでしょう!
注: 現在、水城や土塁のあったところには溜池は無く、逆に宇美町との境には溜池が存在する。グーグルマップで見て欲しい。水田というものは水はけを良くする工夫がなされ、遠く(山麓あたり)の溜池からの水の供給により、水田を水で満たしたり、逆に干上がらせたりコントロールしている。すなわち、水が淀みやすい水城周辺の溜池は廃止し、川の上流に水田用の溜池を意図的に設けた。すなわち、現在の水城と御笠川が交差するあたりの水の流れは1300年の歴史の中で改良されたものである。
参考