大宰府は日本国の高規格交通ネットワークの一部となっていた | 日本の歴史と日本人のルーツ

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飛鳥時代から平安時代前期まで使われた古代の官道は現在の高速道路のように幅広の直線道路、すなわち高規格道路であった。大宰府は九州の中心として、西海道の官道のネットワークに接続されていた。


参考

① 古代の官道(参考)

現代からみて1300年前の古代の道はどのようなものであったのか、調べていくと驚くべきその「道」の実体がわかってきました。

日本という国が統一国家とまとまったばかりの頃の道とはどのようなものであったか、歴史学の観点からも今まであまり重要視されていなかった古代の道がここ近年全国各地で確認調査されその実体が明らかになってきています。

以前(30年位前)は専門家の内でも古代の道というと、踏み分け道を拡幅整備した程度の幅の狭い曲折の多い小道と考えられていたのが一般的でした。そのような道と考えられた理由としては奈良盆地の東縁にある「山の辺の道」などを例として、又古道のイメージとして江戸の五街道が幅二間(3.6メートル)ほどで、曲折が多く歩行を原則としていることから1000年以上も昔の道が江戸時代の道より大きく整備されていたなどど考えることもなかったと思われます。文明は時代とともに進化、発達するものであることが一般の考え方でした。

古代の道の研究の先駆けは奈良盆地を中心とした都城の道から「上ツ道」「中ツ道」「下ツ道」「横大路」や河内平野の「大津道」「丹比道」が直線道で幅広の道であることが判明し、更に昭和47年(1972)に全国の古代交通路に関する共同研究が行われ、この共同研究の成果をもとに現在も各地で古代道の調査研究が進められています。

でわ現在わかっている古代の道の姿はどのようなものなのか、古代の官道の道幅は平均して10~12メートルで、しかも恐ろしく真っ直ぐな道で場所によっては10数キロもの直線道であり、道の両側に側溝をともなうことが多いことなどがわかってきています。

道幅に関して現在の車道と比較してみると、現在の車道の一車線が約3メートルで、一般的な道は2車線ですから約6メートルで、4車線国道などは12メートルということになります。

これから考えると古代の道はえらく広い道であったことが伺われます。都城及び近辺の道幅をみると、平城京の「朱雀大路」が幅約70メートル、朱雀大路から南に伸びる「下ツ道」が幅約23メートル、難波大道が幅約18メートルだそうです。全国各地に建設された前期駅路が幅約10~12メートル、後期駅路や伝路でも6メートル前後の幅であったそうです。

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古代の道が10メートルを超す幅の道であることがわかったのですが、では何故そんなに広い幅の道が造られたのでしょうか。古代律令国家のもとに計画的に造られた道は中国の隋・唐の道路を模範として造られたことがわかっています。

古代中国では紀元前221年に秦の始皇帝が中国を統一し、全国に「馳道(ちどう)」と呼ばれる幹線道路を建設しています。馳道は幅50歩(約70メートル)で3丈(約7メートル)ごとに街道樹を植え並木の役割をはたしていて、又道路中央の3丈は一段高くして皇帝専用であったそうです。秦は馳道の他に「直道(ちょくどう)」という軍用道路も建設していました。直道について司馬遷の『史記』には「山を塹り、谷を堙め、直ちに之を通ず」とあります。これら秦の古代道は皇帝の巡遊、軍隊の移動、資材の運搬が主な目的であったといわれます。

秦が滅んだ後は漢が道路系を継承し隋・唐と続き、隋の煬帝は「御道(ぎょどう)」という幅100歩(約140メートル)の大道を建設しています。遣隋使はこの道を見てきているわけです。古代中国の道路建設を見習た日本の古代道は、天智朝ごろには全国のかなりな地域に、造られていったと考えられているようです。自動車も無い時代に造られた幅広の直線道は外使や民に国家権力の象徴を示すものとして建設されたと考えられます。

また当時は対外的な緊張関係が高まった時期なので、大軍兵の移動のためなど軍事的な目的のために幅広の直線道が考えられていたのではないかともいわれています。いずれにせよ古代人は大きいものが好きとみえて、巨大古墳や奈良の大仏と、いやはや恐れ入りました。


② 古代行政区分と官道(参考)

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③ wikiによる解説の抜粋

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④-1 西海道(参考)

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④-2 大宰府周辺の古代官道(鴻臚館展示パネル)

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④-3 大宰府と筑後国を結ぶ古代の官道(参考)

城山道きのやまみち立明寺地区遺跡りゅうみょうじちくいせき古代官道

「城山道      きのやまみち」とよばれる古代道は、大宰帥だざいのそちであった大伴旅人おおとものたびとが任を終えて都へ帰る後に、筑後守葛井連大成ふじいのむらじおおなりが悲しみを詠んだ歌のみに残されています。

今よりは 城の山道は寂しけむ 我が通はむと 思ひしものを(万葉集巻4-576)

と万葉集に登場するのが唯一で、そのルートはほとんど解明されていませんが、基肄城の東麓を抜けて大宰府と筑後国を結び基肄駅家を経由する直線道が推定されています。

平成20年6月から8月にかけて発掘調査を実施した立明寺地区遺跡C地点で、奈良時代(およそ1,200年前)の古代官道と考えられる遺構がみつかりました。これは、今日までに推定がされていなかった未知の官道で、城山道につながる可能性があるものです。


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⑤ 兵庫県内の古代の山陽道や山陰道(参考)

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⑥ 下関市あたりの山陽道(参考)

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⑦ 平安時代の牛車(参考): 一頭引きの牛車で、すれ違いを考慮しても二車線で6mの道幅が入りそうである。

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⑧ 明治時代の馬車(横浜開港資料館)

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⑨ 古代の土木工事は馬鹿に出来ない(参考)、牛馬を駆使して大工事を短期間に完成させた。


余談:

ところで、博多湾から大宰府政庁まで東と西の2本の官道が並行して走っているのはどうしてか?水城の内側(政庁側)に溜まりすぎた水を御笠川に大量放出することがあり、下流が氾濫して官道が塞がる怖れが十分に予測出来たからであろう。

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御笠川下流の博多区の浸水ハザードマップ

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通常の御笠川

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洪水の時の御笠川、治水の進んだ現在でも、この有様