現在の太陽暦はローマ時代、西暦紀元前45年にシーザーによって制定された。日本へは江戸時代に入ってきた。中華文化圏、イスラム諸国は太陰暦を採用してきた。
当時、暦の知識など他人、他国に簡単に教えない秘伝であった。6世紀後半から導入した太陰太陽暦も毎年、暦博士を百済から招聘した。卑弥呼の時代、太陽暦を計算する暦博士はローマから毎年、招聘したのであろうか?それとも渡来人の中に太陽暦博士のローマ人が含まれていたのであろうか?
参考
その後、ローマ帝国領で発展したキリスト教ではユリウス暦を採用することとなる(wikiより)。
日本の太陽暦
日本では、中国から6世紀後半に太陰太陽暦が伝来し、明治時代まで国暦として採用された(参考)。太陽暦については、江戸時代にも少しずつ紹介され、蘭学者の中にはオランダ正月を祝うものもいたそうです。幕末には和暦と西暦の照合も必要となり、萬国普通暦なども作られていました。
⚫︎明治5年(1872)11月9日 改暦の布告 (国立国会図書館)、
中国の暦法
中国の暦法はいわゆる太陰太陽暦であり、1月の長さを月の月齢約29.3日を基準に1年における月の配列を太陽の運行を基準に定める。1911年まで採用された(wikiより)。
イスラム暦
純粋な太陰暦である。1年を平年354日、閏年はこれに1日足した355日の暦法を用いている(wikiより)。
日食・月食の予測は暦(現在はグレゴリオ暦…太陽暦のこと)で完全に予測出来るらしい。だが、逆に言うと予測されていなかった日食・月食が起きるとその暦は間違っているということになり、人々から信用を失うということになる(参考)。
暦博士
『日本書紀』においては、欽明天皇14年(553年)条に登場するのが最古である。同年、6月に百済に暦博士を番によって日本に派遣することを求めている。これは当時、新羅との軍事的緊張下にあった百済に対する日本の軍事的支援に対する見返りであったと考えられ、日本からの継続的支援を希望する百済が暦博士を派遣しても毎年の暦の作成・提供に留まり、暦学伝授には応じなかったとする見方がある(wikiより)。