シモデ先生のまあじゃんうんちく version2 -9ページ目

シモデ先生のまあじゃんうんちく version2

題名の通り、マージャンに関するうんちく話を、自分なりの観点で紹介しています。最近はあまり書いていませんが(笑)。


マージャン強くなりたい、という人にはあまり役に立たない話ばかりかも(笑)。

1998年。
選手活動2年目を迎えました。


春先と夏場は、いい所なしでしたが、
秋に行われた「μカップin銀座」で、
μカップの予選を初めて通過できました。


ちなみに、当時の予選システムは、
半荘4回打って、上位40~50%くらいが5回戦に進出。
進出した人はポイント持ち越しで、
最終的に、上位15%程度が予選通過、というもの。

そうなると、
「ある程度大振りしないと」
という意識が強く働きすぎて自滅という、
負けパターンになるわけですよ。
若かりし頃の私が、まさにそうでした。
もちろん、基礎雀力の無さが、一番の原因なのですが。

とはいえ実際は、大振りしなくとも、
最後までチャンスが残るように意識すれば、
どうにか戦えるんですよね。

それに気付いたのは、
だいぶ後になってからなんですけどね。


ちなみに本戦は、いい所なく敗退しました。残念。



更に、その次の「μカップin仙台」では、
予選通過しただけでなく、
初めて決勝戦に進出する事ができました。

とはいうものの、決勝戦では見せ場がほとんど無く、
オーラスの時点の条件は、
役満ツモでもトータル4位、
どこからの直撃でもトータル3位、
という状況になってしまいました。

もう、どうしていいかわからなかったですね~。


そういえば、初めて「採譜される側」になりましたよ。

準決勝で、忍田幸夫プロを相手にトップを取ったんですけどね。
トップを決定づけたアガリの局が、
井出洋介プロが連載していたコラムに掲載されたのです。
今では休刊となった「プレイコミック」でしたね~。

自分の闘牌が誌上に載るのって、
やっぱり嬉しいものですね~。



そんなこんなで、
1年目よりも、少しだけ成績を残す事が出来たと思います。

とはいえ、
「成績ほど実力が伴っていないなぁ」
というのは、自分の中でも思っていました。

対局をやればやるほど、
他の選手との実力差を感じてしまうんですよね。

デビューして最初の数年は、
「自分程度の実力で、優勝しちゃダメなんだろうなぁ」
と、本気で思ったくらいです。

勝負事をやるにあたっての心構えが、
まるでなってないですよね。

まぁ、実際に超ヘタクソだったから、
「勝っちゃったらどうしよう」
とかいう心配は、杞憂に過ぎなかったんですけどね。




今日の話は、ひとまずここまで。

この年から、μカップ以外にも、
新しいタイトル戦や対局が始まったんですよね。

それらについては、次回お話しようと思います。

ではまた~。

前回の記事でも触れた、

「セタ杯争奪・麻雀日本シリーズ(主催・報知新聞社)」

について、もう少しお話しましょうか。



この大会は、麻将連合(当時・麻雀連合)が発足するにあたっての、

一大イベントのようなものでした。

最大の目玉は、「優勝賞金300万円」ですね。

過去最高に近い金額だったのではないでしょうか。



予選は、全国10ヶ所前後で行われました。


全国各地の予選を勝ち抜いた人、

選手予選で勝ち上がった人、

各界の著名人シード、

それぞれの腕自慢が、都内のホテルに集結したのです。


本戦初日は、ベスト64を決める戦い。

初日終了後は、懇親パーティーでした。

司会を務めた、笛吹雅子さん(当時・日テレアナウンサー)が、

とても綺麗だったのが、一番印象的でした。



本戦2日目。

私はここからの出番。


細かい内容は、ほとんど覚えていませんが、

とにかく舞い上がって、アツくなって、

気がついたら惨敗した、っていう感じでしたね。



その後、準々決勝(ベスト16)の時点で、

ウチの選手で残っていたのは、大沢健二選手だけ。


決勝は、当時101競技連盟所属の梶本琢程選手、

あとの3人は、地区予選からの勝ち上がり組でした。


優勝したのは、石川県在住の中橋さんという方でした。



負けた後は、最後まで観戦しましたとも。

このまま名古屋に帰るのがもったいない、と思ったので。



ついでに、打ち上げにも付いていきました。

女優の宮下順子さんがやっていたバーに行ったのかな。


東京にいたら、朝までコースだったのですが、

深夜バスの出発時間が迫っていたので、お先に失礼しました。



負けた悔しさを胸に、

帰りのバスに揺られたのでした。




今回の話は、ひとまずここまで。


もしも、あの大会でウチの選手が優勝していたら、

第2回以降も続いていたかもなぁ、

と思う事もあります。


というのは。

2013年から始まった「全国麻雀選手権」という大会がありまして。

インターネット麻雀の「Maru-jan」を運営している、

シグナルトークが主催しています。


優勝賞金が、なんと500万円!


その第1回の優勝者が、

最高位戦の谷翼プロでした。


もしも、第1回の決勝に、プロが誰もいなかったら、

現在の盛り上がりは、果たしてあったのかなぁ。


今も継続している「全国麻雀選手権」の盛り上がりを見るにつけ、

20年前の苦い思い出が蘇るのでした。


大会を継続してくれている、シグナルトークの方々に、

改めて感謝したいですね。



ではまた~。

麻将連合(当時・麻雀連合)所属の選手としてのデビュー戦は、
1997年度の開幕戦でもある、「μカップin銀座」でした。

予選の参加者は、12人。
人数としては、正直寂しいところ。
しかし、告知の期間が短かったためでしょう。

本戦に進めるのは、確か5人だったかな。


私の結果は、最終戦トップ条件に持ち込みましたが、
残念ながら予選落ち。
華々しいデビューとはいきませんでした。


その開幕戦で優勝したのが、
当時若手のツアー選手だった、地野彰信選手でした。

決勝戦には、三原孝博選手、小林剛選手といった、
後にエース的存在になる選手が進出しました。



ちなみに、私が1年間戦った結果はといいますと。

μカップは、1回だけ本戦シードがあったものの、
3回出場した予選は、全部敗退。

それ以外には、
「セタ杯争奪・麻雀日本シリーズ(主催・報知新聞社)」
という、優勝賞金300万円の大会に出場しました。

選手予選を勝ち抜き、ベスト64シードを獲得しましたが、
ベスト64トーナメントで、あっさり敗退。


トーナメント戦のシステムで戦ったのは、
実はこの時が初めてでした。

ちなみに、トーナメント戦とは、
「同一メンツ4人で戦い、上位2人が勝ち上がり」
というシステムです。

その当時、トーナメント戦システムを採用していたのが、
名人戦(主催・双葉社。現在休止中)、
發王戦(主催・最高位戦)、
十段戦(主催・プロ連盟)、
くらいでしたかね~。

しかも、十段戦はプロ連盟所属選手限定でした。

今でこそ、トーナメント戦のタイトル戦が結構増えましたが、
当時は、経験できる場がほとんど無かったわけです。




一方、仕事関係でも、いろいろありました。

これまで、橘高正彦選手が経営していた麻雀店、
「サークル21」で働いていたのですが、
夏場に辞めました。

ここで仕事を続けていく事が不安になってきた、
というのが1番の理由ですが。

私の場合は、小さいストレスが溜まりに溜まって、
何かのはずみで「やってられるか~」って、
なってしまうんですよね。

フリー麻雀店勤務の頃は、
だいたい2年周期で、そうなってしまいましたね~。


辞めてから2ヶ月くらいは、
肉体労働系の派遣のアルバイトをしていました。

その間は、仕事や買い物以外では、
ほとんど外出しないで、家でテレビゲームやったり、
引き篭もりに近い状態でした。
とにかくダラダラしていましたね~。


しかし、そんな状態を長く続けるわけにはいきません。
更に言うと、麻雀の仕事をまたやりたくなるんですよね。
もはや病気です(笑)。

というわけで、次の職場は、
瀬戸市にあった麻雀店「じゃらんじゃらん」。

地域密着型の「1000点につき、うまい棒10本」のお店。
こういうお店の雰囲気は、実は嫌いじゃないのです。

求人情報で募集していたわけじゃないのに、
私の惨状を見かねて、快く雇ってくれたマスターには、
本当に感謝しています。

そこでは約1年ほど、お手伝いしました。
辞めた時も円満でした。
わがままを聞いてくれた、マスターの人柄のおかげですね。



そんなこんなで、選手活動1年目を過ごしました。

まぁ、改めて振り返ると、
よく生きていけましたね~(笑)。




今回の話は、ひとまずここまで。

ちなみに「じゃらんじゃらん」は、
今でも営業が続いています。
ただ、前の場所から引っ越ししましたが。

5年前に、久しぶりに訪れたのですが、
マスターも相変わらずお元気で、
見た目も当時と変わらなかったですね。


さらに余談。
私がじゃらんじゃらんで働く前、
サンマ天鳳位の「いちはら」さんが、
そこでアルバイトしていたそうな。

やはり当時から強かったようで、
周囲からは「瀬戸の神様」と呼ばれていたとか。

いちはらさんとは、その後麻雀仲間になり、
一緒に遊んだりする事になります。

更に、ネット麻雀を通じて、
15年振りに再会する事になるとは、
当然、その時は知る由もありません。


次回も1~2年目あたりのお話になる予定です。
ではまた~。
1997年の春。

同期の須藤浩選手に誘われて、育成会に参加する事に。


当時の講師は、
原浩明選手、高見沢治幸選手という、大先輩のお二人。

当時参加していたのは、
のちに麻将連合(当時は麻雀連合ですが)の選手になった人はもちろん、
他団体のAリーグになった人、
タイトルを獲得した人など、
今思えば、豪華な顔ぶれでしたね~。

参加者の名前は、この場では一応伏せておきますね。
もしかしたら、本人にとっては黒歴史かもしれないので(笑)。
どうしても聞きたいという方は、
どこかでお会いした時にでも聞いてくれれば、
お話いたしますが(笑)。



育成会では、いろんな事を教わりました。

対局内容、対局作法、選手になるにあたっての心構え、
麻雀に関するあらゆる専門知識など。

改めて、この場に来て良かったと思いました。
名古屋にいるだけでは身につかないものばかりでしたね~。




その頃は、他にもいろいろありました。

発足記念パーティー。

とにかく、参加者が豪華。
テレビでしか見たことない人もゾロゾロ。
「井出さんって、やっぱり凄いんだなぁ」
という小並感溢れる感想しか浮かばなかったくらいです。

どうしていいかわからず、右往左往しているうちに、
いつの間にか終わりましたね~。



千葉県の上総一ノ宮にあった、竹書房の福利厚生施設でマージャン合宿。

のちに、麻雀博物館になる場所です。
先輩と若手との交流や親睦が主な目的でした。

他には、湯河原の合宿にも参加させてもらいましたね。

発足間もない時期で、選手の数も少なかった時期は、
時々こういう合宿が行われていたものでした。



とにかく、出会うもの全てが、新鮮に感じましたね。
やっぱり当時は若かったんだなぁ、自分。
そりゃ、若いのは当たり前か(笑)。




今回の話は、ひとまずここまで。

新人の頃は、育成会に参加する立場でした。

あれから20年近く。
まさか私が育成会の講師を務めているとは。
いやはや、わからないものですね~。


ちなみに、今年前期の育成会は、
5~9月の第一金曜日19時から、
五反田本部道場にて開催しております。

会費は、麻将連合会員は2000円、
一般の方は3000円となっております。

7月1日の育成会は、
「テンパイチャンス」についての講義です。
時間に余裕があれば、他にもいろいろお話できればと思います。

基本的には、
講義1時間少々、実戦1時間半くらい、
というタイムスケジュールとなっております。

興味ある方は是非ご参加くださいませ。



今回もあとがきが宣伝になりましたね(笑)。

ではまた~。
1997年の春。

「トーナメントツアー選手・B」として、
麻雀連合(当時)に所属する事になった私は、
発足してから初めてのミーティングに参加しました。


とにかく驚きと戸惑いの連続でした。

試験の結果、団体としてプロに認定されたのが1人だけだという事。

それ以外の20人くらいが、「トーナメントツアーA選手」。
6人くらいが、「トーナメントツアーB選手」の肩書きになった事。

プロを目指す人達を教育する「育成会」を開催する事。

選手限定のリーグ戦は行わず、
「μカップ」という、オールカマーの大会を、
日本全国各地で、年間数回開催するという事。

ゲームソフトの会社がスポンサーになって、
優勝賞金300万円の大会を開催するという事。

選手だけでなく、法人会員や個人会員の会費を募って、運営していくという事。


とにかく、既存の団体とは違う、新しい麻雀プロの世界、
新しい麻雀プロ像を作り上げていく、というのが伝わってきました。

いや、他人事じゃないんですよね。
私もその一員になったわけですから。



それにしても、他のツアー選手の顔触れを見ると、
本当に私ごときがここにいていいのか、という気持ちにさせられましたね~。

だって、つい最近まで、他団体のAリーグの選手だったり、
GⅠタイトルを獲得した選手だったりした人が、
ペーペーの私と同じ肩書きになってしまったわけですからね。


ちなみに、他団体の所属経験がなく、ツアー選手になったのが、
私と須藤浩さんの2人だけでした。

須藤さんも不安だったようで、
「しもでさん、今度一緒に育成会行きましょうよ」
と声をかけてくれました。

私にとっても、願ったり叶ったり。
もちろん快諾しましたとも。

当時の育成会については、後日書こうかと思います。


ミーティングを終えた後の気持ちは、
希望や期待が20%、戸惑いや不安が80%、
といった感じでしたね~。

とはいうものの、もう後戻りはできません。
どう頑張ればいいのかわからないけど、
とにかく頑張るしかないのです。

その当時は、そう思ったものです。
若かったなぁ~。



今回の話は、ひとまずここまで。

プロテストの試験問題の作成者だったのが、井出洋介プロでした。
「このくらいの問題なら、プロなら満点に近いくらいは出来てほしい」
と思っていたようなのですが、
全体的に筆記試験の成績が振るわなかったようで。


ちなみに、早解き問題の満点は、私以外にもう1人だけいました。
「牌効率」という言葉の生みの親、忍田幸夫プロです。

忍田プロは、筆記が優秀だったのに加え、
競技麻雀の実績も、最高位戦でAリーグ、
101(いちまるいち)でA級。
文句なしのプロ認定というわけです。


「この程度の知識で、プロを名乗らせるわけにはいかない」
「かといって、合格者1人で残りは不合格では、団体が成り立たない」
という、葛藤によって生まれたのが、「ツアー選手」制度だったのです。

ツアー選手に関しては、試験と過去の実績を考慮して、
ツアーAとツアーBに分けられました。

私は試験がいくらか良かったものの、実績がゼロなので、
当然のツアーBとなったわけです。


ただ1人の認定プロとなった、忍田プロ。

実績がほとんどなかったにもかかわらず、
実績のあるベテラン選手と同じ、ツアーAになった若手選手。

彼らにかかったプレッシャーは、
私なんかとは比べ物にならないくらいの重圧だったでしょうね。

思えば、その重圧に打ち勝って、乗り越えた人達が、
現在の麻将連合を担っているんですよね。


後書きの方が長くなりましたね(笑)。
ではまた~。