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シモデ先生のまあじゃんうんちく version2

題名の通り、マージャンに関するうんちく話を、自分なりの観点で紹介しています。最近はあまり書いていませんが(笑)。


マージャン強くなりたい、という人にはあまり役に立たない話ばかりかも(笑)。

1999年の初夏。
「オクトパス倶楽部」の藤沢店に勤務する事となりました。

当時の大まかな条件は、こんな感じ。

12時間勤務で、週休1日。
ただし、2年間勤務すると、週休2日。
対局日は月1日のみ公休扱い。
100ゲーム以上打つと、ささやかなゲーム代バック。
店内の食事、寮費は無料。

これでも当時は、麻雀店勤務の条件としては、
まぁまぁ良いほうだったと思います。
いやはや、時代を感じますね(笑)。

まぁ、何よりも、
とにかく名古屋から出て行きたかった気持ちが強かったので、
それだけで充分満足でした。




私が働き始めた頃のオクトパス倶楽部に勤務していた競技選手は…。


総合責任者の木村和幸プロ。
木村プロについては、前回述べた通りですね。


専属プロとして、忍田幸夫プロも、
当時は週2~4日勤務していました。
ニコニコしながら、点棒を稼ぎまくっていました。
あ、これは今も変わらんか(笑)。


この2人がお店の看板みたいな存在でしたが、
とにかく鬼みたいに強かったですね。




本厚木店の店長だったのが、岩田文夫さん。
当時は麻将連合のツアー選手でもありました。

一時期は、麻雀劇画の原作をやっていた事もありました。
「麻雀探偵ジュン」で検索してみてくださいね。



私より少し後に入ってきた、渡辺穂高さん。
短期間ではありましたが、
麻将連合のツアー選手として、競技活動をしていました。

選手活動をやめた後、しばらくは競技マージャンから遠ざかっていましたが、
最近になって、μカップなどに参加してくれるようになりました。

選手時代も実力はありましたが、今の方が断然強く感じます。
木村プロの麻雀を一番受け継いでいるのではないでしょうか。


私と入れ違いを含めると、他にも何人かいました。
まぁ、ここでは私が出会った人を優先させたいので、あしからず。




今回の話は、ひとまずここまで。

今回は、主に藤沢店のスタッフを紹介しました。

「オレの出番はまだか~」
と思っている人も、まだまだいる事でしょう。

でも、オクトパス倶楽部には、
実力抜群な人、個性の強い人が結構いたんですから。
まぁ、もう少し待ってくださいな。

その中には、後に競技選手になった人も沢山います。
麻将連合のゴールド会員になった人もいたなぁ。

というわけで、他の方々は、次回以降に回しましょう。

ではまた~。
1999年の5月あたりでしょうか。

いろんな方々に相談をした結果、
再び関東でお仕事をする事になりました。

新しい職場は、神奈川県の藤沢市にあった、
「オクトパス倶楽部」という、フリー麻雀店。
1000点につき、うまい棒5本貰えるお店でした。


まずは、オクトパス倶楽部の歴史について、
少しお話しましょうか。

オープンしたのは、1994年あたりだったと思います。
当初は、うまい棒5本の東風戦としてスタート。
しかし、思うように客足が伸びず、
すぐに、うまい棒5本の東南戦に切り替えました。

さらに画期的だったのは、
「原則として、30歳以上のお客様はお断り」
というもの。

年配のお客様がいる事によって、
店内の雰囲気が悪くなるのを恐れたのですね。

すると、その戦略は大成功。
7卓置いてあるお店だったのですが、
満卓になる事も結構あったそうです。


しかし、私が働き始めた時は、
藤沢周辺にも、うまい棒5本のお店が増えてきた事もあり、
全盛期よりも客足が少し落ち始めた頃でした。



そして、オクトパス倶楽部といえば、この人ですね。
開店当初から店長として運営に携わっていた、木村和幸プロ。

木村プロは、21歳の時に最高位戦でデビュー。
その後、ストレートでAリーグに昇級。
第22期最高位決定戦では、
「アガれば優勝」というところまで行った事もありました。

その後、「最高位戦の若手のホープ」の座を捨て、
麻将連合を受験する、という道を選んだのです。



そして、2度目の関東上陸となった、しもで青年。

前回と違い、今回はツテを頼ってきただけに、
そうそう簡単には辞められません。

さてさて、どうなる事やら。



今回の話は、ひとまずここまで。

これだけ歴史のあった麻雀店だけに、
当時の常連さんやスタッフには、
現在も活躍している競技団体所属選手や、
熱心な愛好家が、たくさんいたんですよね。

「出番はまだか」と待ちわびていた皆さん、
もうすぐですからね(笑)。

ではまた~。
今回は、麻将連合(当時・麻雀連合)発足当時の対局について、
もう少し詳しくお話しようかと思います。

関東再上陸編だと思ったであろう一部の方々に、
深くお詫び申し上げます。m(_ _)m


麻将連合が発足する以前の公式戦といえば、
選手同士のリーグ戦がメインでした。

当時のプロアマ混合の公式戦は、
發王戦(最高位戦)
王位戦(プロ連盟)
マスターズ(プロ連盟)
阿佐田哲也杯(月刊プロ麻雀)
くらいだったでしょうか。


そこで、麻将連合が発足するわけですが、
初年度は既存のリーグ戦を行いませんでした。

行われた公式戦は、
μカップ、麻雀日本シリーズといった、
プロアマ混合の形式だけでした。

本当は「プロアマ混合」と表記するのは、
好きじゃないんですけどね。
適当な言葉が思い浮かばないので、あしからず。




麻雀日本シリーズは、1年限りで休止しましたが、
μカップは、現在も毎年7~9回ほど開催されています。


1年目には、1回だけ「所属選手+後援者限定」で、
本戦だけ開催した回もありました。


2年目の夏の、μカップin福井(北陸と表記してたかな?)。
予選は福井県民ホールのイベント会場で行われたのですが、
なんと、「手積み卓」だったのです。

開会式で、その日の運営だった高見沢治幸選手が、
手積みの作法について、丁寧に説明していたのが、
一番印象に残っています。


発足して5年目くらいまでは、
競技マージャンというのもよくわからずに、
なんとなく参加していた人がまだまだ多かったと思います。
1年に1人平均で、トラブルを起こして帰ってしまう人がいましたね。

参加者に原因がある場合もあれば、
運営側の不手際が原因だった事もありました。

もっとも今では、そういう事は無くなりました。
参加してくれている皆さんに改めて感謝します。




あと、今でも時々話題になる「時間制限」。
μカップでは、
予選が「50分+1局」、
本戦は「60分+1局」、
準決勝「70分+1局」、
決勝は「時間無制限」、
という基本システムとなっています。

時間制限の際の1局の区切りですが、
多くのところは「親がサイコロを振ったか」が、
基準になっています。
μカップでも、当初はそうでした。

しかし、そうなると、
洗牌(牌をかき混ぜる)をせずに、
すぐに卓の開閉ボタンを押して、
牌山が上がってくる前にサイコロボタンを押す、という、
「負けていて早く局を進めたいから、作法そっちのけでやってしまう」
人が発生してしまうわけです。

そこで、
「1局の区切りは、アガリもしくは流局が確定した時点」
というように改正されたのです。

おかげで、作法が乱れる事が激減したと思います。



今回の話しは、ひとまずここまで。

競技マージャンにおける「時間制限」については、
色々な意見がありますよね。

ブログで書くのは結構大変なので、
どこかの酒の席で話そうかな(笑)。


ではまた~。
今回は、1997~99年あたりの、名古屋時代の仕事のお話。


仕事の方は、空白期間が少しあったものの、
基本的に麻雀店勤務でした。

名古屋市の本山にあった「サークル21」に約2年、
約2ヶ月ほど肉体労働系の派遣のバイト、
瀬戸市の「じゃらんじゃらん」で約1年。
というところまで、お話したかと思います。

じゃらんじゃらんで働いて1年近く経った頃、
当時のサークル21のオーナーだった橘高正彦さんから、
「しもでくん、大阪に戻ることになったから、
僕の代わりに、サークル21に戻ってくれないか」
と、お願いをされました。

ただ、橘高さんから引き継いでオーナーになったAさんが、
とてもアクの強い人で、正直苦手なタイプでした。

一度辞めている事もあり、悩みましたが、
橘高さんには色々お世話になっていた時期もあったので、
結局、サークル21に出戻る事にしました。


結果から先に話すと、半年くらいで辞めました。
麻雀店に勤務していると2年周期にやってくる、
「やってられるか病」が、こんなに早く発症するとはね。

細かいストレスが積み重なる、いつものパターンですが、
この時は、Aさんとあらゆる面でソリが合わなかったのが、
一番の原因でしたね。



さて、サークル21を辞める事にした、しもで青年。
その時は、もう名古屋に居たくないって思いましたね~。

そこで、再び頭をよぎる「上京」の2文字。
以前と違い、関東に知り合いが増えた事もあり、
前回よりは心の準備がしやすかったですね。

関東にいる先輩の方々に、色々と相談した結果、
次に勤務地が決まりました。

場所は、神奈川県藤沢市。

心当たりがある人にとっては、
「もしかしたら、オレ登場するかも」
って、楽しみ(?)に思うのではないでしょうか。

続きは後日ということで。



今回の話は、ひとまずここまで。

私が辞めた後のサークル21と、Aさんのその後について。

私が辞めて、しばらくしてから、
私の同僚だった3人が、店舗の運営をする事になりました。
ただし、オーナーはAさんのまま。

ちなみにAさんは、オーナーでありながら、
「お店で麻雀を打たないで」と運営側からお願いされるという、
いわゆる「出入り禁止」に近い状態になりました。

しばらくは、そこそこいい状態が続いたようですが、
ライバル店が増え始めた影響もあり、結局閉店となったのです。



サークル21を辞めてから2~3年後。

その日仕事が休みだった私は、
新宿の麻雀店に打ちにいったんです。
休日でも麻雀とは、我ながらアホですね(笑)。

それはさておき、ドアを開けたら、
入り口のすぐ近くの卓で、Aさんが打っているではありませんか。
これはビックリ(苦笑)。

その2秒後、私は麻雀を打つ事も無く、店の外に出ました(笑)。



それ以降、Aさんがどこで何をしているか、
全く情報がありません。


ではまた~。
麻将連合(当時・麻雀連合)の発足2年目となった、1998年。

この年は、新しいタイトル戦や対局が増えました。


1つは、「BIG1(ビッグワン)カップ」。

麻将連合初期にあらゆる面で協力していただいたのが、
山王飯店の社長でもある、張建民さんでした。

その張さんと親交が深かったのが、
当時、福岡ダイエーホークスの監督だった、
というか、「世界のホームラン王」の、
あの王貞治さんです。

そこで、王さんの異名でもある「BIG1」を、
タイトルの名前として、使わせていただいたのです。

ちなみに、最初の数回は、
BIG1カップ優勝者が、王さんに優勝報告をするのが、
恒例行事となっていました。


前年開催された「麻雀日本シリーズ」は、結局1回限りでしたが、
BIG1カップは、毎年恒例のタイトル戦となりました。

第2回までの出場資格は、
μカップ優勝者、もしくはそれに準ずる成績優秀者限定でした。

第3回は、プロアマオールカマー。
第4回以降は、基本的に、
「公式戦で一定の成績を収めた麻将連合会員」。

最近は、麻将連合会員以外のプロ団体所属選手も、
出場資格が得られるようになりました。



もう1つは、「ランキング戦」。

1年目は、選手同士の対局がなかったんですよね。
しかし、ただ集まってやるのも芸が無い。

そこで、将来の「プロリーグ」構想に向けて、
システムをいろいろ考えたわけですね。

当時のランキング戦の、大まかなシステムについて、
述べていきたいと思います。

・同じメンツで、半荘3回を1セット打つ
・順位点のみの評価で、トップから+3・+1・▲1・▲3
・期首順位を設け、それもポイントに反映させる

ルールは、現在のランキング戦と変わりません。
一発裏ドラなしに加え、テンパイ料なし。
ただし、テンパイ連荘。

その後、システム面の変更を経て、現在に至ります。



今回の話は、ひとまずここまで。

「説明しかしてないやんけ~」
というツッコミもあるでしょう。
ていうか、私が読者だったら真っ先に突っ込みます(笑)。

しかし、最近麻将連合を知った人はもちろん、
もしかしたら、ウチの選手の中にも、
こういういきさつがあったのを知らない人がいるのではないでしょうか。

今後も、こういう歴史の話をチョイチョイ入れると思います。

ではまた~。