シモデ先生のまあじゃんうんちく version2 -13ページ目

シモデ先生のまあじゃんうんちく version2

題名の通り、マージャンに関するうんちく話を、自分なりの観点で紹介しています。最近はあまり書いていませんが(笑)。


マージャン強くなりたい、という人にはあまり役に立たない話ばかりかも(笑)。

「麻雀で生きる」ために、もう1つ活動した事があります。

それは、「麻雀プロの世界」に入る事です。


時は1994年。
当時のプロ団体(もしくはリーグ戦)は、活動開始の早い順から、
「日本麻雀最高位戦」(最高位戦)
「日本プロ麻雀連盟」(プロ連盟)
「101競技連盟」(101)
の、3つでした。
(カッコ内は、通称)

ちなみに当時の最高位戦は、正式にはプロ団体ではなかったんですね。
「日本麻雀最高位戦」というリーグ戦を、実行委員会が運営していた形でした。
最高位戦に出場している選手を、事実上「プロ」扱いしていたのです。


少し話が逸れました。
いろいろ考えた結果、私が選んだのは最高位戦でした。

一番歴史がある団体。
井出洋介プロ、金子正輝プロ、飯田正人プロなどへの憧れ。
年会費があまりかからない。
リーグ数が少ないので、上のリーグまでの道のりが短い。
(当時はA・B・Cの3リーグ)

他にもいくつか理由はありますが、長くなるのでこの辺で。



当時の最高位戦の試験事情についても触れておきましょう。
当時の試験の名称は「Cリーグ予選」。
そう、試験ではなく「予選」なのです。
ですから、当日(もしくは数日)の麻雀の成績次第というわけです。

しかも、Cリーグ予選に出場する為に、ある「資格」が必要だったのです。
それは、全国数ヶ所で開催されていた、
「最高位戦奨励会」の会場で、30半荘以上打つこと。

ちなみに会場は、関東で3ヶ所、大阪で1ヶ所。
名古屋からだと、一応大阪が一番近いわけですが…。

しかし、思い立ったのは8月。
大阪会場は開催が月に1回で、1日6回打ったとしても規定回数に足りない。

唯一間に合いそうなのが、横浜会場。
そこは月2回開催だったので、なんとか足りそう。

そして、思い立ったが吉日、と言わんばかりに、
最高位戦の事務局だったか、会場に直接だったか忘れましたが、
最高位戦奨励会への参加の連絡をしました。


こうして、麻雀を「趣味」から「人生」に変える、
その第一歩を踏み出してしまったわけです。



今回の話は、ひとまずここまで。

実は、最高位戦を受験しようとする少し前に、
發王戦の一般予選に初めて出場しまして。
私はまるで手も足も出ず、惨敗。

ちなみに、その予選を勝ち上がったうちの一人に、
メガネを掛けた、ハリーポッターの主人公に似ている若者がいました。
彼は当時、高田馬場にあった「ポリエステル100%」という、
麻雀店でアルバイトをしていました。
確か名前は「コバヤシ」とか言ったかな。

そんな彼と初めて会ってから、もう22年も経つのか~。
同世代の現役選手の中では、一番長い付き合いなのですね。


次回は、最高位戦奨励会のお話をしようと思います。
ではまた~。
さて、麻雀を仕事にしようと決めた、21歳のしもで青年。

まずは、就職活動。
当時、麻雀の仕事といえば、麻雀店のスタッフ(通称・メンバー)でした。
まぁ、今もそうかもしれませんね。

秋くらいに面接の為に上京。
八王子にあった、「B-フリー」という麻雀店でした。
ちなみに、町田に「ウェルカム」という姉妹店がありました。

そう、後に20店舗くらいチェーン展開する、あの「ウェルカム」です。

そこの社長のMさんは、情熱あふれる熱い人で、しかもかなりのやり手でした。
当時は現場にも出ていて、スタッフからは恐れられていましたね。

面接には、社長みずからお相手してくれました。
そこで、数時間くらい熱く話してくれたのが印象的でした。


そして、「内定」を頂き、再び名古屋で学生生活。

専門学校の先生から、就職状況を聞かれて、
「かくかくしかじかで、麻雀店で働く事にしました」
と、報告したら、呆れられましたね(笑)。

そして、最大の難関でもある、親にも報告。
母は、
「そんなヤクザみたいな仕事、やめなさい」
父は、
「まぁ、お前の人生なんだから、好きにしなさい」
と、定番の反応。

やはりこういう時は、産んで育てた立場の方が、反対してくるものですね。

まぁ、自分が親だったら、かけてきたお金の事まで思うと、
「ふざけんな」って思うでしょうね(笑)。


そして、「麻雀で生きる」と決めるにあたって、もう1つ活動した事があります。
こちらは、次回以降にお話しましょうかね。



今回の話は、ひとまずここまで。

実際、当時の麻雀店の経営者は、カタギじゃない人も結構いたと思います。
元来怖がりの私が、麻雀店で働くと決めたのは、今思えば信じられないですね。

今の私だったら、普通に就職して、仕事終わったら麻雀して、
そのうち仕事サボって麻雀して、気がついたら麻雀店で働く。

あ、やっぱり同じだ(笑)。


ではまた~。
1994年の2月。
私が21歳の時ですね。

本山の「サークル21(ツーワン)」という麻雀店のオーナーだったMさんが、
このお店を、若者向けにリニューアルしたい、という事で、
気がついたら(笑)、アルバイトスタッフとしてお手伝いする事になりました。

Mさんは、面白そうと思ったらやってみよう、というタイプの人でした。
営業時間外は、大学生限定で無料で貸切にしたり。
別冊近代麻雀とのコラボ企画で、「ねるとん麻雀」というのをやったり。
他にも、思いつきで色んな事をやっていました。

当初は、麻雀店というよりも、まさにサークル活動の延長みたいなものだったのですが、
麻雀店の営業としてのシステムをしっかりとやるために、新しい店長を招聘したのです。
いろんな麻雀店を渡り歩いていた、101の伝道師としても名高かったKさんです。

Kさんは、数ヶ月に渡り、店のシステムを作り上げました。
その後、何があったかは不明ですが、Kさんは辞める事に。

そして、店長が代わってから、2年くらいは右肩上がりが続きました。
その辺のお話は、また後日述べていきましょう。


一方、学生としての私についてですが。
学校には落第しない程度には行っていましたよ。念のため言いますが(笑)。

当時、私の学校は、歩いて2分のところにありました。
しかし、月1回くらいは、歩いて2分の学校を華麗にスルーして(笑)、
電車に乗り込み、麻雀店に行くという事をやっていました。

あぁ、自分が親なら殴りたい(笑)。


そして、最終学年となると、就職活動というものがやってきます。
本来なら、ね。

しかし、こんな時期になっても、
「何になりたい」とか「何をやりたい」とかいうのが見つからなかったんです。

やってきた事といえば、そう、麻雀です。
しかも、麻雀やっている時が、楽しくて仕方なかったですね。

「それじゃあ、麻雀を仕事にすればいいじゃないか」
という、逆転の発想が生まれるのです。

えぇ、アホですね(笑)。

そこから、
「じゃあ、麻雀を仕事にするにはどうすればいいか」
という考えに至るのです。

やはり、アホですね(笑)。

その後、しもで青年がどういう行動をとったかについては、次回以降にお話しましょう。



今回の話は、ひとまずここまで。

今、学生やってる皆さんは、色んな事をやってほしいです。
その中で、好きなものが増えれば、将来への選択肢が増えると思いますし。
社会人になってからでも、趣味として付き合うというのもいいと思います。

私みたいに、麻雀に嵌り過ぎないでくださいね(笑)。

ではまた~。
専門学生だった当時、学校の勉強はほとんどやっていませんでした。
ましてや、親からの監視が無くなったから、なおさらですよね(笑)。

その代わり(?)、麻雀の本をたくさん読んでいました。
まぁ、親不孝この上ないですね。
私が親なら、タコ殴りにしていますね(笑)。


ところで、どんな麻雀の本を読んでいたかといいますと…。
当時はいろいろ読んでいましたね~。

麻雀劇画誌
近代麻雀オリジナル・別冊近代麻雀・近代麻雀ゴールド

麻雀専門誌
月刊プロ麻雀(バックナンバーを含む)

麻雀の勉強用
何を切るシリーズ(文庫本・コミック版の両方)
戦術書(井出洋介プロ・小島武夫プロ・金子正輝プロなど)


いろいろ読みましたが、一番影響を受けたのは、
天野晴夫氏の「リーチ麻雀論改革派」です。

今思えば、表現に嫌味が多すぎる気がしますが(笑)、
内容は、「あぁ、なるほどなぁ」と、感心するものが多かったですね。

中でも、
「麻雀にはツキも勘も流れもない」
この一言は衝撃でしたね。


一方、私の周りの強い人は、流れとか勢いを信じながら打っていました。

それゆえに、
「実は、麻雀に流れとか無いですよね~」
と言いたくとも、自分の弱さゆえに言えませんでした。

私自身も知らない事や身についていない事が、まだまだ多すぎました。
「自分がもっと頑張って、強くなってから、声を大にして言おう」
と、心に誓ったものです。

昔も今も、争い事が大嫌いな私。
「お前ら何言ってんだよ」
とか、喧嘩を吹っ掛ける事は、当然無く、
「流れ論者」ならぬ「流され論者」として、若き日を過ごしたわけです。



今回の話は、ひとまずここまで。

ちなみに麻雀はおろか、日常生活でも、
流れどころか、神様も信じていないんですよね。

仮に神様がいたとしたら、防ぎようの無いような悪い結果になった時に、
「神、テメー」って思ってしまいそうなので(笑)。

いるかどうか分からないものを恨んでしまうくらいなら、
「神様は居ないもの」
と思った方がいいかな、と。

その代わり、起こった結果は受け入れるよう、心がけています。
まさに「ケセラセラ」ですね。
どうにかなる時はなるし、どうにもならない時は仕方ないですからね。


話は脱線しましたが、次回は私の人生の分岐点となった麻雀店のお話です。
ではまた~。
1992年の春。
私がまだ19歳の頃でした。

当時通っていた「麻雀ゼミナール」の店長だったSさん。
フランケンみたいな強面でしたが、
兄貴分のようなキャラクターという事もあって、
常連の人達にとても慕われていました。

そのSさんが、今池で3人打ちの麻雀店を開くという事で、
Sさんの代わりに店長になったのが、ヤングモンブランの社員だったKさん。

Kさんとは、ヤングモンブラン時代から知り合いだった事もあり、
私はそのままゼミナールに通い続けました。

その一方、Sさんを慕っていた常連さんの大半は、
ゼミナールに来る機会が激減していきました。

客が減ったもう1つの理由は、ゲーム代とうまい棒のバランス。
「うまい棒3本」の「順位プレミア30本・60本」でゲーム代300円から、
「うまい棒5本」の「順位プレミア30本・60本」でゲーム代400円に変わったのです。

ゲーム代を値上げしたい、というオーナーの意向があったのでしょう。
しかし、お客さんの反応は正直でしたね。


客もスタッフも足りなくなりつつあった1992年の夏。
店長のKさんに、
「しもでくんさぁ、どうせならメンバー(麻雀店スタッフの通称)やらない?」
と誘われたのです。

私としては、
「お金貰えて、麻雀たくさん打てるなら、幸せ」
という感じで、願ったり叶ったり。
断る理由もないので、Kさんの誘いを受ける事になりました。


当時の待遇は、時給600円で、うまい棒などは自己責任。
ゲーム代はどうだったかなぁ。
100円戻ってくるか、全部自腹か、どっちか忘れました(笑)。

いずれにせよ、現在の感覚からすれば信じられないでしょう。
それでも、今よりも学生アルバイトが多かったですね。

理由は、景気。
バブル経済が崩壊して間もない頃とはいえ、
現在よりもお金の回りがまだまだ良かったのです。
最低限の生活が出来る程度の仕送りを貰っている人が多かったですね。

だから、麻雀店のアルバイトは、
「麻雀出来れば、お金は少しでもいいや」
という感覚でした。

結局、麻雀ゼミナールのアルバイトは、1年ちょっと続いたのかな。
Kさんも既に店長から降格していたし、
ゼミナールの雰囲気にもそろそろ飽きてきたし(笑)。


少し間を置いて、別の麻雀店でアルバイトをする事に。
そのお店が、私の麻雀人生に大きく影響したと思います。



今回の話は、ひとまずここまで。

このペースだと、年内に終わるかどうか、怪しいですね(笑)。
まぁ、のんびりお付き合いくださいませ。

次回は、当時読んだ麻雀の本についてお話しようと思います。
ではまた~。