宇和島市で興味深い歴史セミナーがありました! | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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先日、宇和島市で興味深い歴史セミナーがあり、友人に誘われて参加してきました。

 

実は、宇和島市の歴史研究会と、四万十市付近の歴史研究会が、

予土会という名前の合同歴史研究会を作ってきたといいます。

 

そして予土会の宇和島市の重鎮の近藤先生が発表されました。

タイトルは以下のものでした。

つまり、戊辰戦争で宇和島藩の影が薄いが、そうだろうか?

という問題意識なのです。

 

 

そしてこの絵がメインテーマでした。

これは慶応4年(明治元年になる年)の1月の3日の御所の様子を描いた絵です。

 

今なら従軍記者が写真を撮れば済む話でしょうが、従軍絵師が御所の警護に詰めかけた様子を描いています。

右上の空が赤いのは、正に鳥羽伏見方面で戦闘が行われている様を

表しています。

 

実はこの絵の中を克明に人数を数え、服装から宇和島藩士だと検証が進み、藩主の伊達宗城公も描かれていたのです

この場所こそ御所の西側の宣秋門の辺りだそうです。

 

この絵の中で、宇和島藩の大砲は幾つ持ち込んでいたのか?という解析も行われています。

 

すると四斤山砲を宇和島藩としては13門しか持っていないが、

土佐藩は100門を新政府に提供したという記事もありました。

 

へえ!こんな話は土佐藩の歴史としては聞いたことがない(私が)。

 

まあ、宇和島藩は御所を守るために藩士を派遣していた、その歴史的事実をアピールしたわけです。

 

私は、たまに宇和島市を訪問すると、伊達博物館があり、宇和島城があり、市内には高野長英をかくまっていた家があり、若き大村益次郎を長州から招へいしていた家もあり、歴史の遺産がたくさんありで、いつもうらやましいと感じています。

 

しかし、このセミナーでは宇和島の皆さんは、幕末維新ころの歴史においては、藩主伊達宗城公以外に、名前がでてきませんから、
土佐藩に対して引け目を感じておられるのだろうか?と感じました。

 


確かに宇和島藩は戊辰戦争に兵士を出して討幕の一翼を担っていなかったと目されているようです。

その結果、明治政府には、あまり評価されていないようです。

 

いや、そうではなく、宇和島藩は御所の警備にも藩士を出していますよ、いや戊辰戦争にも参加していますよ・・と言いたいのだろうと、

何となく感じました。

 

確かに土佐藩には、幕末に多くの藩士が脱藩したり、十津川事件、

堺事件、土佐勤皇党の弾圧、坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺などなど、血なまぐさい事件がたくさんありました。

 

明治になってからも、岩崎弥太郎や板垣退助が土佐藩出身として活躍しています

 

では宇和島藩士より土佐藩士が優秀であったのでしょうか?

 

私には宇和島藩主の伊達宗城公が余りに有能で、かつ養子として

伊達藩主に就いた関係で、藩士に遠慮があったのだろと思うのです

 

だから長州征伐にも派兵せず、戊辰戦争にも動かなかったのです。

だから藩士の死者は居ないのではありませんか?

 

土佐藩は真逆で、藩内に上士の下士の厳しい軋轢が250年も続いていたのです。

結果、幕末に鬱積したエネルギーとして若い藩士が暴発したのです。

 

ただ、それだけなのですよ。

 

もちろん、だからと言って土佐藩の志士たちの評価が高すぎるとは言いませんが、ストレスのない治世からは、人材は出てこないということですね。

 

政治は良き治世を行うべきであって、宇和島藩の江戸時代は、素晴らしい治世であったと思うべきでしょうね。

 

明治維新以降、余りに世の中の変わりようが激しかったと思うのです。
ゆっくりと戊辰戦争の検証も歴史的になされていないと思います。

 

宇和島市を歩くと、今も江戸時代の香りを伝えているような、歴史の重みや実に良い風情を感じます。

 

華々しく全国区の人材の名前が明治期以降に出ていないと言っても、そんな視点は無意味です。

残念ながら高知市や四万十市には、宇和島市に漂う歴史の香りは感じません。

 

だから宇和島市の皆さんに申し上げたい。
歴史の表面だけを見て、土佐藩にジェラシーをお感じになる必要は全くないのです。

 

伊達宗城公という優れた藩主の下で、宇和島藩士達は
身に危険を感じる事態になることもなく、
無事明治維新を迎えたではありませんか。


英国公使パークスの艦隊を単独で迎えて、英国と国際交流を図り
藩論が勤皇派と佐幕派に分裂することもなく、
バランスのとれた宇和島藩を創り上げたのも伊達宗城公が居られた
からでしょう。

 

宇和島藩は、藩士も庶民も、平和裏に明治を迎える準備ができた、
すばらしい藩であったと私には見えますね。

その頃の歴史の香りが、今に伊達博物館などに伝わっています。