四国各藩の戊辰戦争事情(その2) | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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戊辰戦争は、偶発的に起きた鳥羽伏見の戦いから討幕戦争になりました。

この戦いに、各藩がどう対応したかがその後の明治政府の論功行賞に大きく影響しています。

 

■徳島藩 蜂須賀家 25万8千石
13代藩主斉裕が慶応4年1月に病没し、茂韶が新藩主となってから、日和見から転換、佐幕派から勤王へと新政府支持に回った。
その意味ではタイミング的にツイていたと云えます。
鳥羽伏見での大津警護から、江戸、東北、関東と重要な戦場を転戦し、出兵総数は1千を数えました。

 

■丸亀藩 京極家 5万2千石
当初、日和見だったが、高松藩征討では土佐藩の先陣を務めたほか、京阪神に83名の護衛を拠出しました。

 

■多度津藩 京極家。丸亀藩の分封 1万石
伏見警備に50名を拠出したほか、高松藩征討では海路高松へ参陣しました。


■今治藩 3万5千石
藩祖・松平定房は江戸城大留守居番役(城代)の名門。
兄弟藩の松山とは異なり、時代の変化に対応し、当初から勤皇派だった。
鳥羽伏見では皇居警護に117名を派遣、会津若松城攻撃にも尽力しました。

 

■土佐藩 山内家 24万2千石


山内容堂は幕末四賢侯のひとり。
当初は、佐幕的公武合体思想が強かったが、郷士と呼ばれる土佐藩独特の下級武士に引っ張られる形で、維新の渦中に放り込まれた。
慶応4年1月11日朝廷より高松、松山及び川之江幕領を討伐の勅書が届く。
松山には長州出陣に先んじて占領、数百枚の「土佐藩下宿」の張り紙で、長州藩の狼藉から松山の人家を守ったという。
戊辰戦争には兵総数2千を出兵させた。

特に乾退助(後の板垣退助)などが当初から薩土盟約に関わり、討幕派として動いていたこともあった。

 

■土佐新田藩 土佐藩分与。領地なし。
代々定府の家柄であり、藩主の山内豊福は元は恭順派だったが、
末席ゆえ意見もままならず、江戸城内の大勢に同調を余儀なくされ、
抗戦派となってしまう。
徳川家と宗家土佐藩の板挟みとなり、切腹した。

 

*この土佐新田藩については、全く初耳であり、驚いています。
世の中の動きにアンテナを立てることなく過ごしてきて、
義理と人情で切腹とは、何とも哀れですね。


■大洲藩  加藤家 6万石


米子の加藤家の転封。土佐藩と交流を持ち、長州藩とも友好関係を持っていたバリバリの勤王派だったそうです。
鳥羽伏見では長州藩の上陸支援や敵情視察を行うなど、官軍の勝利に大きく寄与しました。
天皇が東幸する際の供奉を務めました。 
藩主の加藤泰秋は、天朝を尊び教学を興して人材を登用し、小藩中随一の名君と云われています。

 

■新谷藩 大洲藩の分家 1万石
皇居護衛、天皇東幸護衛など、勤王派として積極的に活動。


■西条藩  3万石
徳川家康の孫の家柄。親藩。
佐幕・勤王二派が拮抗するも、勤王で藩論を統一。

京都守衛を命じられる。

 

■小松藩 西条藩の分封一柳家 1万石
勤王派として藩兵の近代化に取り組む。
藩士全190名中51名を会津征討軍に拠出し、長岡城攻撃などに活躍しました。
輜重隊として参加した森川伝蔵の冒険譚が記録として残っています。
大藩に伍して小藩がよく戦った好例となっています。


■宇和島藩 伊達家 10万石

伊達宗城は幕末四賢侯のひとり。
藩政改革、西欧の軍制や兵器の導入に取り組んでいます。
脱獄して重罪人となった高野長英を招聘したり、大村益次郎を招いて研究をやらせ、シーボルトの娘イネを産婦人科医として招きました。
さらに提灯屋の嘉蔵を起用し、火輪船を造り宇和島湾を航送させた。
人材の抜擢になんのタガもなかった殿様。
新政府の高官として栄進した。

 

但し、宇和島藩は御所守護のための派兵をしたものの、戊辰戦争には加わっていないため、明治政府下では冷遇されています。

 

堺事件当時、新政府の外交を担っていたのが伊達宗城で、
伊達宗城のみが幕末四賢侯として、輝いています。


結局幕末期に、時代の流れを読み、どう備えたのか、各藩の対応が
さまざまであることが分かりますね。

 

土佐藩も実は危なかったのです。
徳川恩顧の大名として、何とか討幕をしないで大政奉還策を上奏したりで、最後まで山内容堂は優柔不断だったのです。

しかし、その緊急の場において旗幟鮮明にすべき時に、板垣退助が勝手に京都御所の守備兵を動かして、倒幕に動いたといわれています。

 

だから一早く高松藩、松山藩討伐の錦旗が授与されて、
藩挙げて討幕派の流れで動けたのです。

結果として明治新政府内で、それなりのポジションを得られました。

しかし、宇和島藩は伊達宗城を除いては、冷遇されました。
戊辰戦争に出兵しなかったからです。

 

幕末に於ける四国各藩の動向については、歴史で学ぶことがなかったので、この本から得た情報は新鮮でした。

 

それにしても幕末における土佐藩士の突出した動きが
何故出来たのか?不思議です。

恐らくは上士下士の身分差別を持ち込んだ山内家のやり方に
納得ができなかったエネルギーが、幕末に爆発したのではないでしょうか。