四国各藩の戊辰戦争事情 | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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そして国際交流が多様化する中、文明と文明の出会い部分に注目して、日本人がどうすれば良いのか、について考えていきます。

面白い本に出合ったのでご紹介します。


「幕末維新・四国各藩の動向と選択」山崎善啓

 

幕末、四国にいくつ藩が存在したのかなんて知っている方は、まあいないでしょうね。
 坂本龍馬や板垣退助など維新のスーパースターが数多く輩出された土佐藩は別格で、幕末四賢侯のひとり、高度に開明的な思想を持った伊達宗城率いる宇和島藩が光っています。


 他にも、阿波徳島藩、伊予松山藩、讃岐高松藩、丸亀藩etc・・・四国には本藩支藩含めて十四藩ありました。
 阿波1,讃岐3,伊予8,土佐2。それに伊予に幕府直轄の天領もあったそうです。


香川県
  高松藩  12万石
  丸亀藩   5万2千石
  多度津藩  1万石(丸亀藩の分家)
  
愛媛県
  今治藩   3万5千石
  西条藩   3万石
  松山藩  15万石
  小松藩   1万石(松山藩の分家)
  大洲藩   6万石
  新谷藩   1万石
  宇和島藩 10万石
  吉田藩   3万石(宇和島藩の分家)

  幕府の直轄領(天領)
  
徳島県
  徳島藩  25万8千石
  
高知県
  土佐藩   24万2千石
  土佐新田藩  1万3千石(土佐藩の分家、但し領地はなかった?)

 

この中で徳川家ゆかりの藩として有名なのが2藩あります。
それは、高松藩松山藩です。

 

そこで、戊辰戦争が起きた時、この14の藩はそれぞれの動き方をしたらしいのです。


先日、堺事件について調べていたらその直前に土佐藩が錦旗を朝廷からもらい土佐に運ぶ途中、神戸付近でフランス兵に奪取されたという事件がありました。

 

その錦旗を運んでいた部隊に樋口真吉が居たことが分かっています。

その錦旗は、討幕派のお墨付きであり、戦にあっては重要な意味を持ちます。「錦旗」のある軍こそが正義だということです。

その錦旗は松山藩と高松藩に対する追悼令の証として、土佐藩に付与されたという経緯があります。

そしてその後の経過を記すと、土佐藩の軍勢は、錦旗を持って、

この両藩を攻めています。

 

■高松藩
二代から水戸光圀の系譜。
親藩。複雑な藩情をもち、鳥羽伏見では徳川方に回ったため、朝敵にされた。高松城下は大混乱し、在坂の家老は2名切腹するも、土佐藩の征討軍の来攻を止められず。


藩主以下ひたすら謹慎謝罪し、征討軍を前に門前で「降参」と大書きされた白旗を掲げ、家老は土下座したそうです。
この速やかな恭順措置により、極めて早く罪を許され、旧態に復する。
軍費十二万両を献納、兵5百名が従軍した。

 

■松山藩
四国十四藩中もっとも維新の嵐に苦しんだ藩。
松平家。藩主の松平定昭は、大坂城で徳川慶喜と一緒だった。


慶喜には勝手に逃げられ、朝敵とされる。藩内は抗戦と恭順で大混乱するも、前藩主勝成が恭順でまとめる。土佐藩は勅命により征討軍を松山に派遣して数ヶ月占領するが、もとより松山藩に同情的であり、松山藩に恨みを持つ長州軍の松山征伐より守るための占領であったそうです。


松山征討にあらず保護だったという訳です。
官軍方に軍資金十五万両を献納しました。

 

*実は直前に幕府の要請で長州征伐に協力した松山藩は、長州藩の大島に攻め入って、長州側の反発を買っていて、長州軍が松山藩に

攻め入ってきたらしいのです。

 

それを土佐藩の軍勢が松山藩を守ったとされています。

この話は、大いに愛媛県民に伝えてほしいものです。(笑)

何と言っても愛媛県の経済が四国を席巻していますから。

 

著者は松山藩の参陣はなかったとされている鳥羽伏見の戦いで、

実は松山藩は参加していたとする推測を史実をまじえて検証していると書いていました。

 

■川之江天領
幕領。松山藩に年貢取り立てなどは委託されていた。
川之江陣屋には朝敵となった松山藩の代官所があり、高松征討に向かう土佐藩軍、板垣退助らの通り道であったため、そのまま藩命を待たずに降伏した。
その後数年間、土佐藩領となったそうです。

 

この歴史は聞いたことがないですね。

 

この話、まだ続きます。