幕末の土佐藩が、なぜ討幕派になったのか?の秘密! | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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幕末の慶応四年1月に堺事件が起きました。

その資料になかに興味ある記述がありました。

 

その前に幕末の慶應三年~四年の出来事を整理します。

慶応三年 10月 大政奉還が発表

       11月 坂本龍馬・中岡慎太郎の暗殺事件

       12月 王政復興が決まる

慶応四年 1月 堺事件発生

       1月 鳥羽伏見の戦い勃発⇒戊辰戦争

       3月 明治政府の基本方針・五か条のご誓文発布

 

とまあ、明治元年になるこの年、大変な激動の年でした。

 

堺事件の文献の中に鳥羽伏見の戦いの地図がありました。

 

これを見る限り、誰が見ても幕府軍が圧倒的に優位に立っています。

しかし、歴史では幕府軍は破れています。

 

この直前にこの事件が起きています。

「錦旗」を土佐藩は、高松藩、松山藩追捕用に朝廷からもらい受け

土佐藩に運ぶ途中だったそうです。

その部隊の中に樋口真吉が居たことが分かりました

なぜなら彼の日記にその事件が克明に記録されていたのです。

これで、土佐藩は完全に討幕側についていたことが明白です。

 

しかし少なくも大政奉還を奏上し、討幕派に距離を置いていたはずの

山内容堂公、この時点では完全に討幕側に立っていますね。

徳川恩顧の土佐藩は、幕府側に立つはずでした。

 

優柔不断な山内容堂公を誰が説得したのか、謎ですが、少なくも

錦旗を貰うということは、朝敵の立場を回避して、倒幕派に舵を切ったということです。

 

龍馬が暗殺されていなかったらどうなったでしょうか?

 

その錦旗を土佐藩に運ぶ役割を樋口真吉も担っていたことがわかりました。

 

そして何故土佐藩がこの時点で錦旗が必要であったか、

それは高松の松平藩、松山藩が幕府側だったからでしょうね。

この両藩を討幕側が抑えるために、土佐藩に「錦旗」が必要であった

というわけです。

 

しかしこんな歴史の話は聞いたことがなかったですね。

 

結果は土佐藩は討幕派で良かったのです。(汗)

 

もう一度鳥羽伏見の地図を見てください。

これだけの戦闘戦略図では、幕府軍は負けるはずがないのです。

そして土佐藩はわずか100名とあり、薩長両藩の後ろに居ては、

幕府側に付けるはずもない立ち位置です。

 

なぜ幕府が負けたのか、その理由は錦旗だと思われます。

「戦」には大義名分がないとできません。

徳川慶喜公が、朝敵になりたくなかった、だから江戸に逃げ帰ったことで、徳川軍は折角の優位な戦局を放棄して、負け戦になったと言えそうです。

 

土佐藩は、いつまでも優柔不断であったらしいなかで、倒幕に舵を切らせた誰かが居たはずです。

ここが今でも謎なのです。

 

それにしても我が郷里出身の樋口真吉先輩は、明治元年のこの時

しっかりと歴史のターニングポイントで、存在感を見せてくれていました。