1868年の「堺事件」ってご存知ですか? | 南海トラフ地震・津波よ、来るな!

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中学校の歴史の教科書にも出ていたと記憶するが、

明治元年に堺事件が起きた。

そのあらましは以下のように説明されている。

 

明治維新期に起こった外国兵との衝突事件。

1868年(慶応4215日、堺に上陸し乱暴を働いた

フランス軍艦水兵と、同地を警備していた土佐藩兵とが

衝突し、水兵11名を死傷させた。

 

開国和親の方針を明らかにしたばかりの新政府は、

フランスの要求をそのまま認め、箕浦猪之吉以下

20名の土佐藩関係者に切腹を命ずることとなった。

 

23日、堺の妙国寺にて切腹が行われたが、立ち会った

フランス軍艦艦長が恐ろしくなって、11名で中止させた。

なお自刃した11名は、北隣の宝珠院(堺市宿屋町東三丁)

に葬られている。

実はこの事件は、その前に伏線があったのです。

その年114日、土佐藩に錦旗が下されて、

それを土佐藩に運んでいた途中に、神戸付近で

フランス兵に通行を阻まれ、一時錦旗がフランス兵に

奪われる事件が起きていた。

 

これを運んでいた土佐藩士のなかに樋口真吉

いたことが分かっています。

彼はこの間の事情を日記に書き残していたのです。

そして215日、堺にてフランス兵との衝突が起きた。

 

結果的に外交問題となったこの事件は、上記の通り

外交力に弱い維新政府とフランス公使の折衝の結果、

土佐藩士20名が切腹となった。

 

当初フランス側は土佐藩士の関係者全員40名余を

処刑するよう要求していたが元宇和島藩主、伊達宗城

の折衝によって、20名で妥結したらしい。

 

問題はまだあった。

土佐藩士の6番隊士、8番隊士の指揮官は武士であったが、

その大半は足軽という身分で、正規の武士ではなく、

姓もない者が含まれていたという。

 

(処分を受けている図)

 

従って、武士でない者が切腹はできないという事情があり、

急遽姓名を付けて武士にして、名誉ある形をつくって

切腹する形にしたのだという。

しかも20名を選ぶにも、くじ引きで決めたらしい。

 

当日堺に駐在していた土佐藩士の六番隊士、八番隊士は、

それぞれ約40名という記録があるが、恐らく彼らが残した

絵図からみると、この2つの部隊併せて40名位かと推測できる。

この中からくじ引きで指揮官と幹部を除いた16名を選んだことになる。

 

そして姓のない者には姓を付け、正規の武士として

辞世の文を書き残し、切腹の準備をした。

(刑場での切腹している図)

 

切腹の当日、フランス側からの立会人3名の前で、

順次切腹していくが、その凄惨な様に驚いて、

11名の切腹をした段階で中止となったという。

 

結果として9名が切腹を免れたが、

無罪放免とはならなかった。

土佐に返され、渡川(今の四万十川)の西にある

入田村(現四万十市入田)に追放の刑になった。

地元では彼らを温かく迎えたと聞いている。

 

 

何という運命であろうか。

堺の警護について、狼藉を働くフランス兵を打ち果たし、

意気揚々と大阪に帰ってみると立場は逆転し、

処刑されることに。

 

しかも20名を選別するにくじ引きだという。

くじを引いてしまい覚悟の刑場にいったものの、

九死に一生を得た9名は追放刑となった。

しかし、病死した川谷銀太郎を除く8名は

明治改元の恩赦で帰郷したという。

 

そのうちの一人横田辰五郎は詳細な記録を書き残し、

堺の治安を守るべく警備兵として当然の任務を果たした

のだと強く主張している。

 

(この巻物の中に上記の絵図が詳細に書かれています)

 

四万十市入田地区では川谷銀次郎の慰霊祭を

毎年85日に行っているそうです。

 

先日「堺事件・展示会」(高知県民族資料館・岡豊城)見学は

この入田地区の皆さんも揃って参加していました。

215日には、堺市の妙国寺には11名の土佐藩士

同じく11名のフランス兵士の慰霊碑があり

215日には慰霊祭が行われているそうです。

 

 

(神戸市にあるフランス人兵士11名の墓地)

 

堺事件にこの四万十市が関係していたとは

今回初めて知りました。

 

それにしても土佐藩は、少し血の気が多いのか

明治維新で多くの血を流しています。

 

リーダーの資質の問題もあります。

 

ちなみに宇和島藩は伊達宗城が藩主ですが、

彼は幕府から命令の長州征伐には出陣しませんでした

 

英国公使パークスの艦隊が宇和島藩に来るので

防衛上、兵を出せないという理由を作って。

 

幕末の四賢候とは、以下の4人です。

宇和島藩主 伊達宗城、

福井藩主 松平春嶽

島津藩主 島津斉彬

土佐藩主 山内容堂

 

このうち地味に見えながら伊達宗城

藩士の生命を大事に守った印象があります。

幕末の動乱でほとんど死者を出していないのでは?

 

幕末から150年になりますが、

現代の四国の経済で一番光っているのが愛媛県

幕末に一番命を犠牲にした土佐藩が

今一のように思うのはひがみでしょうか。

 

リーダーがしっかりしていれば堺事件も別の解決法があったかも

と感じる理由が1つあります。

 

山内容堂と伊達宗城は親しい関係にあったのです。

今回の堺事件はフランス公使ロッシュと宗城が

歓談中に報告されたと言われていて、

宗城は新政府の外務大臣的な役割にいたのです。

 

そこで強硬なロッシュ公使と折衝する過程で、

山内容堂宛てに、病気で休んでいないで出てきて

この問題に立ち向かえ・・と叱咤する宗城からの手紙が

残っています

 

 

日本全国が攘夷、攘夷と騒いでいたのはつい先日までのこと、

急に和親、和親と言われて土佐藩の末端兵士にまで

徹底できる訳もなく、トップが部下の命を守ってやらなくて

どうするのか?と思うのですが・・。

 

15万ポンドの賠償金の上に11名の有為の人材を失ったのが

土佐藩の堺事件だったのです。

 

だから横田辰五郎の絵図は、11名の土佐藩士を

懸命に弁護した渾身の証言なのでしょうね。

 

彼の絵図はもう一度詳細に紹介いたします。