樋口真吉は我が中村(現四万十市)出身の幕末の土佐藩士ですが、
彼の活躍を現代に知らしめようと奮闘中です。(笑)
彼は剣客としても優れていたことは知られていますが、
彼の強さを示す資料に出会いました。
土佐藩で父共々無外流を学び、研鑽に励んでいましたが、他流との試合を認めない流派であったため、破門されたのです。
そこで九州に出かけて行って、天下に名高い大石新陰流に入門しました。そこでわずか28日間で免許皆伝を得たのです。
流石に早すぎるのでは、と異論が出たとも言われていますが、
免許状を貰ってきたのですからすごいですよね。
その裏づけの記事が出ていました。
その論文は現在にも伝わる大石新陰流の歴史を解明した論文の中に、樋口真吉の大石道場での一部始終が出ていたのです。
先に、幕末に大石新陰流道場がどのくらいすごかったのか、
データがありました。
門人総数655名中、土佐藩士60名ですよ。
最初は樋口真吉兄弟の2名の時期もあったのでしょう。
しかし、これだけの隆盛を誇っていた大石道場に出かけて行って
わずか28日で、免許皆伝になってしまったのですからすごいことです。
しかも真吉の28日間の詳細がこの論文に紹介されています。
特別に献金をするはずもない中で、如何に樋口真吉が
卓越した剣客であったのか、想像するだけでもワクワクしますね。
彼の名前は直ちに西日本に、いや全国かもしれませんが
知れ渡ったのでしょうね。
土佐藩にも大石新陰流を彼が勧めた結果が、60名もの入門者になっていますね。
真吉が伝授された剣術の奥義についても資料が残されています。
しかし、樋口真吉の素晴らしさは、単なる剣客として終わらなかったことです。
佐久間象山から砲術も学び、下田に砲台を作り、
ジョン万次郎にも出会って見分を広げ、
幕末の動乱の中で、土佐藩士として戊辰戦争に参加し、
最後まで責任を果たした時、すでに54歳だったのです。
最後の3年間は、徳大寺家に仕えていました。
もう少し長生きをして欲しかった人物です。
大石流新陰流派の歴史の中で、特に樋口真吉を取り上げて流派の隆盛を語っている点を見ても、樋口真吉の評価がいかに高かったかと改めて実感しました。
彼を表したこんな文章も残っています。
高潔の仁であった。
高感度、高淡白、高安定を特長とする不世出の偉人であった。
自己顕示欲は感じられない。龍馬との交遊も誇るところがない。
「漢(おとこ)は生涯に一事をなせばよい」、その一点を凝視すれば、
得意も失意もない。
ただ歩むだけだ。淡々と歩む。大股で悠然と急ぐ。
明治3年、東京麻布にて逝く 享年56歳であった。
完