先に樋口真吉顕彰会が発足したことはお伝えしました。
樋口真吉(1815~1870)の名前はまだ全国区ではありませんが、
今売り出し中ですから、これからご注目ですよ。(笑)
坂本龍馬の最後の手紙に出てくる人物です。
「今いる近江屋が危ないので、樋口真吉に頼んで安全な隠れ家を探してくれ。」 (原本は坂本龍馬記念館が所蔵)
しかし、翌日から望月清平は、本藩〔高知〕へ出張のため忙しく、
その願いは真吉には伝わらなかった。
「龍馬が最後に信頼した樋口真吉」 このとき、 真吉に龍馬の必死の叫びが伝わっていれば歴史は変わっていたかもしれない。
さて樋口真吉顕彰会の会長あてに親族からメッセージが届いたのですが、親族の皆さんも樋口真吉の「玄孫会」を立ち上げられたようです。
その中に次のような記述がありました。
・・・真吉の親族は・・・人数で記すと以下のようで
「玄孫」(やしゃご)7名、
「来孫」(らいそん)13名、
「昆孫」(こんそん)16名
長崎、下関、大阪、横浜、東京と広がって生活されているとか。
この手紙の中に娘さんが通っておられた森村学園の創始者の回顧録に、戊辰戦争の時、板垣から頼まれて、武器弾薬を届けるべく、
会津の山中を山中を彷徨しているとき、「おーい、おーい」と呼ぶ樋口真吉の声が聞こえ、安どし、一緒に山小屋で玄米の握り飯を食べたことを「一生の思い出」・・と記されているのを発見したそうです。
龍馬没後150年経過しました。
この間を埋める書き物に出会うと、150年という月日は、意外に短いものですね。
樋口真吉は剣客としても有名でしたが、几帳面な性格と見えて、
長崎に数度訪問し、その後江戸にでかけて砲術を学び、その道中の
日記を克明に書き残しています。
そのおかげで、彼の動向がかなり正確につかめるのです。
しかもその日その日の温度まで記録しているのをみると、彼の頭脳は理工系だったようです。
彼が35歳で剣道の道場主だったころ、中村に土木工事の役で出向いてきた龍馬と出会っています。
龍馬が脱藩したのち、九州から江戸に向かう途中、路銀に窮していた龍馬が、大阪で真吉に出会い、1両の金を提供したことが日記に
記されています。
これは真吉が描いた砲台のスケッチ
書き物で記録することは大事ですね。
記録が残れば、後世に伝えることができるのです。
龍馬より20歳年長の樋口真吉の足跡を、彼の日記から追っています。
またレポートいたします。
完