最近、
対話
という言葉が巷に溢れています。
でも、こんなにもキーワードとして日々スマホやPCの画面上を大量に流れ続けているのに、
現実としての“対話”を目にしたり、体験したりする機会って、あまりないと思いませんか?
社会に対話という言葉は溢れている。
でも、
私の周りに対話という実体が乏しい。
まして、
企業や役所といった組織の中に、しっかり公式に対話がインストールされている状態なんて、まったくもって“ネバーランド(架空の国)”。
まるで私の周りだけ、対話の真空地帯のよう。
そんな風に感じる人は少なくないのではないでしょうか。
その感じ、私も強く共感します。
この話をするとき、フワッとした感覚論で終わらせないために忘れないようにしたいのが、以下のようなギャップの存在です。
理解のギャップ(そもそも対話(Dialogue)って何?)
知覚のギャップ(対話が存在したら観測できる?)
期待のギャップ(対話を最終兵器だと思ってる?)
全て自戒を込めて、鋭利なブーメランを投げるような気持ちで書きます→大流血・笑
理解のギャップ
「そもそも対話(Dialogue)って何?」
私よりもずっと対話(DIalogue)について実践し、深い知見を有する友人から言われた
「対話とDialogueは違うんですよ」
という言葉が、いつも私の中で響いています。
私たちは“対話”と聴くと、つい
「気兼ねなく本音で話せるってことでしょ」
と思ってしまいませんか? 以前の私はそう思っていました。
日本語としての"対話"が"Dialogue"を訳したものだとしたら、その本当の意味はデヴィッド・ボームの『ダイアログ(On Dialogue)』によれば、以下のような要素から成り立っています。
・ギリシャ語「Dialogos」が語源
・「logos」とは「言葉の意味」という意味
・「dia」とは「~を通して」という意味(二つではない)
・これら語源から、人々の間を通って流れている「意味の流れ」という映像やイメージが生まれてくる
(『ダイアログ(On Dialogue)』(デヴィッド・ボーム著)より引用)
対話とDialogueは似て非なるもの、というのは、Dialogueにおいて「言葉の意味」が人々の間を流れるのは「話す」ことに限定されるものでは無く、
「話す」ことを前提に考える対話ではDialogueの本当の意味を狭めてしまう可能性があるからです。
(もちろん、非言語でのコミュニケーションまでも“対話”に包含するという考え方も可能だとは思いますが)
もう一つ、重要なのが、意味の流れから「何か新たな理解」「出発点には存在しなかったもの」「創造的なもの」が現れてくるという、対話(Dialogue)の意味であり目的。
合意や調停のためでは無いよ、ということ。
これらをまとめると、私の中での対話(Dialogue)の定義は、
・異なる意味を持ち寄り
・新しい意味を創造する
ということ。
「異なる意味を持ち寄る」というのは必ずしもサークル状に座って言葉で話す必要はないし、
「新しい意味を創造する」というのは合意したり結論を導くことでもない。
それは本質ではないんですね。
そこに勝手な解釈で「対話の場を作って本音で話して、理解し合おう」とか言い出すと、おしゃべりなんだか会議なんだかワークショップなんだか分からなくなって、
「うちには対話がないな~」
とか言い出すんですよね。
皆さんの居るその場所から見て、
社会に対話は溢れていますか?
それは実体として目の前に実在しますか?
(後編に続きます)
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