とても幼い頃のはなしである。
意識が芽生えた2歳頃から自意識が現れる9歳位までのこと。
母の愛情に包まれていた私は、命の危険にさらされることもなく飢える心配もない、何の苦労もない守られた世界に生きていた。
今となっては霧の中の光景のように焦点の合わないぼやけた記憶しか残っていないが、それを辿ってみることにしよう。

そこでのある日は母に揺り起こされることに始まる。朝ごはんを食べたあと母と共に保育園に行き、園内をちょこちょこ駆け回ったり、絵本を読んでもらったりした。昼寝の時間には(子供にとっては)広い部屋で並べて敷かれた布団に入り、薄い掛物を掛けられる。そのままスーっと寝てしまうこともあるが、まったく眠くない時も結構な割り合いで多かった。そんな時は薄目を開けて保母さんの目を盗んで起き上がり、こっそり一人で遊んでいた。夕方には母が迎えに来て手をつないで家へと向かう。見るものすべてが目の高さよりも上にある商店街を見上げながら通った。八百屋さんの店先では棚は見えても野菜はあまり見えない。よちよち歩いていると店の前に繋がれた飼い犬から見下ろされる。首が痛くなるほど見上げるような大人の人と母が頭の上で挨拶を交わすようなことが何度かあって家に着いた。家の畳の上でしばらくひとりで遊んでいるとやがて年上の兄姉たちが学校から帰ってきてひとしきり賑やかになって夕食が始まる。夕食が終わると大人の会話が交わされるなかひとり輪の外から眺めているうちに電球の照明で薄暗い部屋の隅で眠りに落ちていった。

幼稚園を経て小学校に上がると毎朝ランドセルを背負って元気に登校する。たやすい内容の授業に何のストレスもなく学び、休み時間になるとグラウンドや教室で友達と遊ぶ。そしてまだ日が高いのに下校時間となると友達とふざけながら帰っていった。

休みの日は朝から兄姉たちで騒々しいなか目を覚まして、ご飯を食べる以外は日が暮れるまで遊び尽くす。
こんな事もあった。その日は朝ごはんを食べた後、庭の雨上がりの葉っぱにいるカタツムリやその通った白い軌跡を眺めていた。横に目をやるとクモの巣にしたたる水滴に朝日が当たってダイヤモンドで出来たシャンデリアのようにキラキラと七色に輝いていた。庭に出て時間を忘れてあちこち眺めてるうちにやがて母から昼ごはんに呼ばれた。食べ終わると友達と原っぱに繰り出す。遊び疲れて帰ってきた私は夕陽が差す部屋の畳で横になると畳の匂いに包まれているうちにいつのまにか眠りに落ちていった。

ふと目が覚める。「え?もう朝?いやまだ昨日の夕方かな?」
赤い残り日で眩しい目を庇いながら頭は混乱していた。
この年頃は一度睡眠に入ってしまうと目覚めたときに時間感覚が狂ってしまうことがよくある。ねぼけた顔を見た母に笑われるが私の狼狽した様は隠しようもなかった。

人生の黎明期であるこの時代はとにかく楽しい。毎日が楽しくてしょうがない。一日が終わっても確実に来ると信じている明日がまたやって来るのが待ち遠しい。
人を悩ませ苦しめる様々な事をまだ知らないからである。

ふたつめの悪夢は今までの人生でピンチに陥った時の夢である。
思えば私の人生は崖っぷちギリギリなんとかセーフの連続だった。

大学受験のとき。3校受けて結果を待っているとひとつ落ち、また次のひとつが落ちた。これで最後の大学に落ちてしまうとどうなるんだろう。家は経済的な余裕がなく、浪人は許されなかった。もしも全部落ちてしまったらそこから就職先を探さなければならない。重圧を感じつつ待っていると初めての合格通知が届いた。しかも幸いなことに先のふたつは滑り止め、最後の1校こそが本命だった。
大学に入学して生活するなかで何度もこの時の夢を見た。大学をひとつ落ちふたつ落ち、最後の望みを託した合格通知をじりじりしながら待っている…ベッドでハッと目覚めると今のが夢だったのか現実なのか、まだ大学に受かっていないのかいるのか周りを見回して頭のなかで確認して初めてホッとしたうえで再び眠りに付いたものだった。

大学では大学で崖っぷちに陥った。
私は大学で入ったサークルの活動に夢中になって授業をサボることが増えていた。二年間の教養部を終えて専門に進めるかどうかという時だった。「単位が足りない!」それまでサボっていた教科を次々と落としてあとひとつでも落としたら留年。もし留年してしまったら親に合わせる顔がない。留年は絶対だめと念を押されていたからだ。
…なんとか最後の単位を拾って留年をまぬがれた。
この時の夢は3年生4年生のときに何度か見る事になった。

次は卒業間近の時だ。卒業制作がなかなか進まずこのままでは卒業できないかもしれないというピンチが襲ってきた。それまで私の努力不足で思うようなものが造れなかったのを担当の助教授に泣きついて結果、助教授に相当手助けをしていただいて何とか形にすることができた。こうしてどうやらこうやらギリギリで卒業させてもらったが、「ああもう卒業できない!」という切羽詰まった夢はそのあと就職したのちもたびたび見ることになりその都度夜中に汗だくで目を覚ましたものだ。

就職してからも新しい悪夢は誕生する。
私は卒業してから教職に就き新任で中学校の2年生を担任することとなった。本音を言えば担任を持たず専門教科の美術の授業だけを受け持ちたかった。もともと教育に燃えて選んだ道ではない。食べていかなければならなかったからに過ぎない。だけど新米教師にそんなわがままが許されるわけがない。「やってみるか」と前向きに捉えて始めることにした。最初は生徒ともフランクな良い関係の状態が続いた。ある時クラスの中でもお調子者だがちょっとワルなグループの一人を教室で注意することがあった。素直に話を聞いてくれるかと思っていたら口答えしてきた。しばらくは穏やかに諭していたが、その生徒がだんだんと調子に乗って卑怯な言い訳をしたときに思わず手が出てしまった。自分の人生において怒りで人に手を挙げた唯一の例である。もちろん教師失格だ。
折りしもその頃は校内暴力が問題になっていた時代だった。何はともあれその事件いらいクラス全体の空気が反抗的なものに変わった。他のクラスの生徒との関係は変わらず良好だったが、自分のクラスだけはその後に様々な学校行事があるたびに関係改善を計ったにも拘わらず学年末まで冷たい空気のままだった。中学生の価値観では客観的に正しいか間違っているかではなく好きか嫌いかのほうが優先されるということにこの時に気が付いた。
この間の私は「針の筵(むしろ)」を身をもって思い知らされていた。そして学年度末を迎えるとともに私は退職した。思ってたとおり私に教師なんて向いていなかったのだ。
こういった顛末を他の職に就いたのちも強いストレスに晒されたときに私はたびたび悪夢として見た。針の筵に身を固くしてるうちにハッと目が覚め、「夢か」といった具合だ。

その後別の職に変わってもその先々ではいろいろなことが起こる。上司に身勝手な暴言を吐かれた時などには、この場でこいつを殴りつけて辞職届を投げつけて出て行こうかと思う事もあった。実際にはぐっと堪えてその場をやり過ごしたが。
そういった時にはやはりそういう場面を再現する悪夢が新しく付け加えられていく。

こういった悪夢のパターンはその当時に現在進行形で見ることもあるが、意外とその事態から離れて何年も後に別のストレスを感じている時に見ることが多い。
だからこれまでに語ってきた様々な悪夢はこれまでの人生のいろいろな場面で繰り返し繰り返し現れて来たのだ。

ただ最近ではこういった悪夢をみることがめっきり無くなってきた。
年齢(とし)のせいか眠りが浅いことが多いので夢を見ること自体は増えているのだが…
リタイア以降はほぼストレスを感じないで済む穏やかな生活を送れているんだろう。
願わくばこのまま「わるい夢」を見ないで済む余生を歩んでいきたい。

最近になってあまり見ることもなくなってきたが、わるい夢を見ることがある。
他の人も同様の経験があると思うが、私は今までの人生でただ一度だけ19歳の時に「金縛り」にあったことがある。
自分の部屋でひとりベッドに寝ているときだった。
真夜中にふと目が覚めると真っ暗な部屋の足元の左隅、天井との境に何か白っぽいものがぼうっと見える。「何だろうあれ…」と思っているとその白いものが壁を離れて突然ぐわーっと目の前に迫ってきた。「ぅうわあ!」と声にならない叫びをあげて両手で顔を覆おうとしても両手が上がらない。それだけではない。身体全体ベッドに縫い付けられたようにびくともしない。驚愕に目だけ大きく見開いている間にそれは顔の前から居なくなった。
ほっとすると同時に身体が動くようになり、暗い部屋で「今のはいったい何だったんだろうか?」と心臓のばくばくが収まらないまま呆然としていた。
金縛りというのは肉体が極度に疲労している場合に起こりやすい。人は疲労を回復するために眠るわけだが、睡眠中脳全体ではなく身体の運動機能に関係しない脳の一部だけがふと目覚めてしまう事がある。そうすると頭の中で意識はあるが身体を動かす指令を出す部署がまだ眠っているために身体を動かせないというちぐはぐな状態になる。

それが金縛りという現象を引き起こすのだ。
そういうわけで「金縛り」はこれから書こうとする「わるい夢」とはちょっとニュアンスが異なる。
「わるい夢」は夜に見る本当の夢の話である。

わたしの悪夢にはあるパターン化したものが在り、それが人生でたびたび襲ってくることになる。

ひとつめはトイレの夢である。
ある廃墟のような場所を私は彷徨っている。そこでは建物は崩れ落ち大抵は屋根もなく壁は四方を囲ってくれてはいない。至るところ埃だらけでそこを取り巻く空気すら黄色くくすんでいる。あたりに人は居るのか居ないのか定かではない。そこで便意を催している私はあちらこちらとトイレを探し歩いている。

崩れた建物の一角にやっとトイレを発見して中を覗いてみると古ぼけた便器の便座には明らかに便の跡らしきものがこびりついている。「これではとても無理だ」と諦めて他のトイレを探すことにする。しばらく探しているうちに別の建物の跡にひとつ見つける。そこは破壊のあとがひどく、床自体が便器ごと大きく傾いていてとてもトイレとして用をなさない。

そうこうする間も便意が増していくので何とか別のトイレを探さなければならない。

さらにあちらこちらと歩き回った末にドアが壊れてぶらぶらしているトイレを発見する。中を覗くとなんと便器の中は便で溢れ便座もべったりと汚れている。絶望感のなか便意と戦いながら別のトイレを探してさらに彷徨うことになる…

私の悪夢の特徴としては堂々巡りがある。
この場合で言うと〝トイレで用を足す〟という最終目標がある。そのために手を尽くしてトイレを探すが、やっと見つけても様々な障害で目的を果たせない。新たな方策を探ってもう少しで目標達成できそうなところまで行くが、もうちょっとでやはり手が届かない。そして再びトイレを求める…このサイクルがいつまでたっても終わらない。終わらないので目が覚めるまで続く。だから脳は私を強制的に目覚めさせざるを得なくなるのだ。


小の場合もある。
雑踏の中、私は尿意をこらえてトイレを探している。なかなか見つからなかったトイレがやっと見つかり中に入ると部屋の中はひどく古びて薄汚い。便器の前に行ってみると、便器はあり得ないほど汚れていて長い事放置されたままのようだ。匂いもきつく、ここで用を足すと絶対触れたくない跳ね返りが跳んでくる。

「嫌だ、無理だ」仕方なく別のトイレを探すことにする。

無表情に歩く人々の間をぬってさんざん探し歩いた末にようやく別のトイレを見つけた。今度は汚れていない。

しかし…壁がない。トイレを取り巻く三方向の壁がないのだ。もしここで用を足したら衆人の目に晒されるだろう。「だめだぁ」
絶望感に陥った瞬間はっと目が覚めた。布団の中にいる。真っ暗な部屋の天井を見上げて我に返った。
そのあとは尿意から解放されるべくトイレへと向かった。

 

 

そうは言っても他人と一緒にカラオケに行くのもなかなか捨てがたい。人数は3~4人がベストじゃないかな。次に歌う番まで曲選びの時間に余裕があるし、待たされ過ぎることもない。
他の人とカラオケをするのは、自分で歌って自分で聴くのとはまた違う楽しみ方がある。普段仕事で真面目な話をしていただけの人が「歌うとこんな声なんだ…」と新鮮な驚きを感じられたり、「全然期待してなかったけど予想外に上手だな」とか逆に「ちょっとガッカリ」とかなかなかに面白い。

でもやっぱり歌が上手い人とカラオケに行くのは中でも格別だ。聴いてて音程が外れてしまわないかハラハラすることがないのは当然として、美しい声やたっぷりの声量で歌われる歌は自然と聴き入ってしまうし、理由のよくわからない感動さえ覚えることがある。私が男性だからそうなんだろうけど、特に若い女性が振りと一緒にかわいい声でアイドルの曲を歌ったり、力強い高い声で広瀬香美の「ロマンスの神様」のサビの部分を完璧に歌われたりすると鳥肌もので、もうそれだけでその人に惚れてしまいそうになる。ひとは容姿だけでなく声に惚れるってのはあるんだねぇ。

そういえば昨今では声優にまるでアイドルのように夢中になっている若い男の子、女の子も特に珍しくはないしね。

 

ところで皆さんは自分の声が好きで満足できているだろうか?
私たちは幼い時から当然のごとく自分に聴こえてる声が自分の声だと思っている。でもそれはちょっと違う。私たちに普通に聴こえてくる音というのは外からの音を空気の振動で耳の鼓膜が捉えたものだ。
それに対して自分の声だけは例外で、声帯から発せられた振動が頭蓋骨を伝わってきたものを鼓膜で捉えた振動といったん自分の口から外に出て空気中を伝わってきた振動が合わさった音として聴こえているのだ。
私は大人になって録音された自分の声を初めて聴いたときにショックを受けたことがある。「え、オレの声ってこんなだったの?」それは長年聴きなれてきた自分の声とはまるで違っていた。自分の声はわりと低音が効いてて渋い声だと思っていたのだが、録音された声は思っていたよりも高く、ずっと軽い感じだったのだ。私はいまさらどうしようもないのに急に恥ずかしくなってひとりで赤面した。「他の人が聴いていた本当のオレの声ってこんな軽かったんだ!」それまでの人生で会話してきた多くの人たちの顔がひとつずつ浮かんでは消えた。

…というわけで自分的にはちょっと残念だった自分の声だったが、いまさらどうなる物でもないし、しばらく時間を置いて客観的に見れるようになるとまあ可もなく不可もなくってところかなと思っている。

声の話題になったところで皆さんにお聞きしたいが、自分の中で理想的だと思える声の歌い手はいるだろうか?
私にはいる。自分がこんな声だったらどれほど良かっただろうかと嫉妬を覚える程素晴らしい声の持ち主が。
まずは何と言っても「ビートルズ」の「ポール・マッカートニー」。超高音から低音まで何のストレスもなく発することができる声帯。声質も「ブラックバード」のような静かな曲を優しい声で歌えるかとおもえば「ヘルタースケルター」や「ジェット」のように金属的でハードでヘヴィーな曲をド迫力で歌い上げることもできる。彼は音楽における才能、クラシックからヘヴィメタルまでどんな曲でも作曲してしまう能力、どんな楽器でも一流の演奏ができてしまう能力、どんな曲でも自由自在に歌いこなす能力とあらゆる才能をミューズ(芸術の神)から与えられているのだ。本当に羨ましい。

もう一人はハード・ロック・バンド「ディープ・パープル」のヴォーカリスト「イアン・ギラン」だ。
その世界最強のパワフルなシャウト、それにメタリックでどこまでも伸びるスクリーム、ロックの歴史上最も迫力のある強靭な声帯は唯一無二だ。羨ましい。

日本にも憧れの声がある。
ここまで紹介した才能はロックやハード・ロック界隈の迫力のある理想的な声だった。
今度は対照的ともいえる美しい澄んだ声だ。「オフコース」の小田和正。
いまや80にも手が届きそうな年齢なのにオフコース時代の若いころとほとんど変わらない高く透明な澄み切った声は奇跡としか思えない。普通のヴォーカリストなら裏声を使わないと絶対無理な高い領域を地声で通してしまう力強い高音は誰も真似ができない。彼のコンサートは女性ファン率が高く、映像を見ていると8割から9割方が女性だ。しかもカメラに映る多くの女性がその声に涙している。やはり美しい声はただそれだけで人々に感動を与えるものなのか。ああこんな声で生まれたかった。

理想的な声という括りからは外れるが、羨ましいということで言えば山下達郎も羨ましい。
こんなに歌が上手いひとがいるのかと聴くたびに感じる。歌う技術を駆使した抑揚にリズムにハーモニー、中低音から高音までスムーズにつながる伸びのある歌声は完璧だ。その安定感は飛びぬけている。
カラオケを歌っていて自分には何年かかってもその領域には行けないなと絶望するほかない。

そうは言ってもやっぱり自分でも歌いたいし、カラオケで高い音程を歌えるとなぜか快感を感じられるものだ。始めの頃は喉が締まりそうになってなかなか高い音が出なかったが、何年も続けていると自分でも少しずつ高い音程を歌えるようになってきた。

ポール・マッカートニーやイアン・ギラン、小田和正や山下達郎には遠く及ばなくとも、これからも自分の好きないろんなタイプの曲を歌ってNOライフNOカラオケといきたい。

今では子供から大人、お年寄り、果ては世界中の隅々まで広く浸透していて、苦手なひともいるけどたいてい一度は経験しているだろうカラオケ。
いまでこそ大好きな私もカラオケが世に出てきた当初はまったく興味がなかった。
けっして歌うことが嫌いというわけではなかった。子どもの頃から好きな歌は周りに人がいなければ時々口ずさんでいたし。
カラオケが世の中に広まっていった頃はまだカラオケボックスなど無く、おもに酒を出すスナックに設置されていた。

私が最初にカラオケを体験したのは社会人一年目の私の歓迎会の二次会のスナックだった。その頃のカラオケの曲目には歌謡曲と演歌しかなくフォークソングなど無かったと記憶しているし、ましてや今のようにロックなどの洋楽はあるはずもなかった。つまり私の大好きな音楽ジャンルはひとつもなかったのだ。
その時は先輩方に強く勧められるあまりそれを断って空気を悪くするのもなあと思い、自分でも歌えそうな渡哲也の「くちなしの花」を歌ったのを今でもおぼえている。
それ以降はカラオケに対する興味はまったく湧かなかったので長いあいだ近づくことはなかった。その間にもカラオケはさらに世の中に広まり、子どもから大人まで手軽に楽しめるカラオケボックスなる新形態まで登場した。

 

初めてカラオケを歌ってから二十数年が経ったある日。新しい職場の飲み会が終わって上司や同僚に誘われるまま二次会のカラオケボックスへと向かった。各々が好きな曲、得意な曲を披露しているうちに私のところにデンモクが回ってきた。

曲を探してみて驚いた。いつの間にか様々なジャンルの曲が入っている。歌謡曲や演歌はもちろん、フォークソングや最新のJポップどころか古いの新しいの取り混ぜて洋楽でも何でもある!およそ歌おうと思えばどんな曲でも歌えそうだ。それに例えばプログレッシブ・ロックみたいに原曲がいかに演奏が難しそうな曲でも驚くほどレコードに忠実に再現されている。私の昔の記憶ではカラオケというのは演奏は入っているもののレコードとは全然違う音だったような気がする。この進化はカラオケが配信という形になってからのようだ。
「これはすごい!」これなら大好きな曲で本人になりきって歌える。
その場で私は学生時代の思い出の曲「いちご白書をもう一度」を歌った。まるで学生時代に戻っているかのような空気感に浸ることができた。


その後マイクがひとまわりして再び私の元へとやってきた。今度はビリー・ジョエルの「素顔のままで」にチャレンジした。イントロが始まり「don't go changing…」と歌い出すともうレコードの中に入り込んでビリーになったみたいで、今まで味わったことのない快感だった。幸い周囲の反応も冷たいものではなく、ウケてくれたので「あ、これ…カラオケいいな」というのが私の目の前に新しい扉が開けた瞬間だった。
それからというものはカラオケ好きの上司に飲みに誘われれば、業務でどうしても抜けられない場合を除けば一も二もなく馳せ参じるのが日常となっていった。
やがて飲み会そのものよりも、その先の二次会のほうが楽しみとなり一次会での酒量をむしろセーブするようになった。というのも飲み過ぎて酔っぱらうとカラオケが上手く歌えなくなるからだ。
よく「お酒が入らないと歌う気にならない」などと言う人がいるが、私はそうではなかった。自分が納得できるレベルで歌うためには歌っているさなかに色々と気を付けなければならないポイントがある。酔っぱらってしまうとそういうポイントを押さえた丁寧な歌い方ができなくなってしまうのだ。プロの歌手が人前で歌う時に酒を飲んで歌う事などけっしてないという事からわかっていただけると思う。

…というわけで今度はだんだんと一人でアルコール無しのカラオケに行くことが増えていく。最初は気後れするが、慣れてしまえばこんなに楽なことはない。
誰かと一緒に行くとその人と歌う曲がかぶったりしないように気を遣わなければならない。それに本当は好きな洋楽をいっぱい歌いたのに、他の人から「カッコつけて…」と思われたくないので歌謡曲やらフォークやらJポップやら演歌やらを織り交ぜなきゃいけない。おまけに人数が多いと自分の番が来るのを辛抱強く待ってなければいけない。こういった気苦労が全部なくなってしまうのだ。もう好きなだけ次から次へと曲を入れていき、声が枯れるまで思う存分歌う事ができる。それに人に聴いてもらう機会が来た時のためにあらかじめ練習もできる。

〝ひとりカラオケ〟ならではだと思うが、人に聴いてもらうには長すぎてちょっと気がひけるビートルズの「アビーロード」のB面後半のメドレーを歌ったこともある。約16分もの長さの大作で次から次へと変幻自在に変化し続けるこの曲を最初から最後まで歌いきった時は素晴らしい達成感や幸福感に包まれた。何しろアルバムそっくりの音源でジョンやポールになりきって歌えたんだから。

あと人によっては聴いてて不快感を感じるかもしれないハードロック、「ディープ・パープル」の「スモーク・オン・ザ・ウォーター」やパンク、「セックス・ピストルズ」の「アナーキー・イン・ザ・UK」などもひとりカラオケなら誰に遠慮することもない。〝ひとりカラオケ〟サイコーである。