2021年
私はおせち料理を初めて美味しいと思いました。
それは、出雲の料亭のおせちでした。
 
なりちゃんが作ってくれた舞茸の炊き込み御飯と一緒にいただきました。
 
見た目だけでは、味のことは伝わらないものだけれども…
 
言葉では、美味しいに集約されてしまうのだけれど…
 
出雲のお雑煮については
なりちゃんの投稿をご参照ください。
 
 
 
私がこの年末年始に出雲に行こうかなと思ったのは
実は、出雲で《本質的な叡智のバトン》が開催されると決まる前でした。
 
なりちゃんとゆっくり過ごしてみたいなと勝手に思っていて。
 
だから、それからバトンが開催されると知ったとき
思いが現実になったという解釈が勝手に成り立ってしまう。
 
でも、それも私の人生の素敵なドラマ化だと思う。
 
想いはその瞬間で終わっていると
そらさんは言うけれど、確かにその通りで
今回は思いが叶ったということではなくて
瞬間で終わっている前提の意識にあるからこそ
ドラマ化できるような人生になっていくのかもしれないと思いつつ
人生として次の選択に身の引き締まる思いなのです。
 
そんなことが
本質的な人生として年初らしいのかもしれない。
 
 
 
私が実家に帰るときに
いつも何が食べたいかと尋ねられると
よく、すき焼きをリクエストしていたけれど
そんなことをよそに
出雲へ行くと、年末の夕食にすき焼きが登場しました。
 
 
 
 
そのすき焼きを東京からやってきた16歳の高校生も一緒に食べて
その子が「名残惜しいですが…」と言って帰ってゆく姿を見送っていた
2020年の年の瀬。
 
社会の中で理不尽さを感じていた高校生と
特別なこともなく数日ともに過ごしただけで
「名残惜しい」と言いながら帰ってゆく場に居合わせて
 
些細なことだけれども、
そんな理不尽さを打ち消してくれる人との関わりが
日常的にそこにはありました。
 
きっと、打ち消したのではなく
理不尽さすら人生と感じられる素敵で幸せな日常が。
 
 
年の瀬も、年明けもテレビを見ることもなく
世間の出来事に感情が揺らぐこともなく
血のつながりの家族とも顔を合わせることがなくても
お正月的なイベントの雰囲気を味わうことがなくても
 
そこには、ただひたすら
普段と変わらない幸せな日常がありました。

 

 

 

 
 
 
暦の上での年始めには、
なぜ「おめでとう」って言うのでしょうか。
 
本当におめでたいと思って発しているのか…と
ちょっと疑問に思ったことがあって。
 
そういえば、今日はゆきちゃん
いつもと変わらず、お互いに特別な挨拶もしなかったな。笑
 
お互いの人生としての関わりに
特別な挨拶が必要なのかどうかわからない。
 
儀式として「おめでとう」と言わなくても
形式的にめでたいと思おうとしなくても
誰かと特別な出来事を共有しなくても
想う人との関わりの中で
自分が生きている日々を幸せだと感じられることが
今の私には何よりも大切で。
 
 
私の今の人生のタイミングで
出雲でバトンが開催されたことは大きな意味がありました。
 
今はまだ、わかりきれないほど大きな意味があるのだと
感じざるを得ない気がしています。
 
 
本当は、あなたの人生にも
今見ている現実とは違う世界があることを
早く体験して、本当の自分の人生を自分のものにしてほしいとおもいます。
 
それを願うことしかできないけれども
 
願わくは、私もあなたの人生に関わることができますように。
 
 
それが私が生きていることを実感できることだから。
 
 
shiho
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

★shihoのプロフィール★

https://ameblo.jp/shiho917avenue/entry-12631343841.html

 

 

 

 

 

 

《本質的な叡智のバトン》開催のそらさんの活動

https://ameblo.jp/sora-ni/entry-12372375405.html

 

【詳細】

 

 

 

 

 

 

 

お問合せ

そらさんメールアドレス

healing.sora@gmail.com

 

ブログアドレス

https://ameblo.jp/sora-ni

 

そらさんについて

https://ameblo.jp/shiho917avenue/entry-12624287213.html

  

 全国ツアースケジュール 

https://ameblo.jp/sora-ni/entry-12401459143.html