
こんばんは。おごし志保です。
やるか?やらないか?
選択に立った時
まずは、やらないを選んできたし
「やる」を選ぶまで、膨大な時間を費やしてきた。
なんで、どうして、自分だけ
周りのみんなみたいに
とっととやらないんだろう?できないんだろう?
言い訳ばっかりと、嫌気がさしていたし
決めていないから?
素直じゃないから?
自分をチクリチクリ否定してきたし
苛立ちもあった。
世の中的に言われている
「普通」や「これがよし」に沿えない自分
それでも、自分の中の何かが
ちっとも動かない感じで
普通にできない、やらない自分のこと
扱いずらい厄介者扱いしてきたわけで
そんなこんなに、思考と時間を
費やしてきたのでした。
けどね、考えてみたら
意外に、やってる時もあったのよね。
周りからみたら、かなりかなり大胆なことも。
当の本人(私)にしてみたら
「そお?」と、キョトンとしていたんだけど(笑)
その時の自分って
「やる」を、わざわざ選択したつもりなく
そこに勇気が必要だったか?というと
そんな覚えもまったくない。
やる必要性を感じていたか?というと
そこまで大それたこともでないし。
やることが、普通な状態だったんです。
今、思うのは
世の中的な「普通」と
自分的な「普通」に
違いがあっただけの話で
自分の普通を押し殺して
世の中の普通に
必死に合わせようとしていたこと。
100人いて、99人にとっての普通が
自分にとっての普通か?といったら
そうとも限らないし、そうでなくてはいけない!はずもない。
何とか合わせて、どうにか足並み揃えられて
それで、自分は幸せなの?満足なの?
喜びや豊かさの実感はある???
「みんなと同じ」という
当てはまるだけの安心にすぎない。
思うんだけど、
みんなの普通を、自分の普通に
押し付けている人は
自分のみならず、誰かにも同じ様に
観て、かかわっているはずで
その影響は、自分だけに留まらないのよね。
人は、そんなに器用ではないからさ。
そもそも、普通という言葉
あまり良くないとされがちだけど
自分が、当たり前に大切にしていること
自分が、当たり前に必要だとしていること
自分が、当たり前に譲れないこと
そこには、自分があって
比べるものでも、合わせるものでもなく
合わせなくてはいけないものでもなく
もちろん、誇示するものでも
争うものでも、戦うものでもなく
ただ、そこに普通にあるもので
ただ、いつもそうしていること。
それは、自分への愛かもしれない。