前回は、温泉の源泉が岸壁から湧き出ていた

というというところまで書きました。


当時のお風呂は洞窟風呂でその上部に窓があったので

「マドの湯」と言っていたようです。

現在も対岸に見えます。


川には丸太橋を架けて歩いていったようです。

夜は、提灯を片手に入りに行ったということです。


ものすごい風情を感じますが、

雪の日や川の水が増水した時は大変だったと思います。


また、文献には、志戸平温泉について

「天王山の麓(天王地区:ホテルから見える橋を渡った対岸の地区)

 より沸き出でる温泉を八十二間の筧(樋)にて引き、

  温泉場として再興してより・・・」とあります。


近隣の人たちがこの湧き湯口でワラビを茹でたことから

「わらびの湯」といわれたとありますが、

それがどの温泉を指すのかはわかりません。


皆さんは、山菜のあく抜きになべの水に重曹を入れると思いますが、

あれはアルカリ性にしてあくを取りやすくするためです。


志戸平温泉の泉質は弱アルカリ性ですから、

あくが取れやすい温泉ということになります。

昔の人も、知っていたんですね。




2代目は、萬次郎という名前でしたが、父善太郎が亡くなると、

「二代目善太郎」」を名乗りました。


もし、その後も“善太郎”を名乗り続けていれば、

私は「六代目善太郎」ということになります。


いまも旅館で○○衛門とか○○郎を代々襲名している

ところがあります。


例えば、宮城県秋保温泉の佐勘 さんの、現在の当主は


34
代目()佐藤勘三郎です。




次回に続きます。

久保田家本家の5代目、

平助の長女のイツに婿をとる形で始まったのが、

善太郎を初代とする志戸平温泉の始まりです。




ちなみに、イツの妹キクが嫁いだ先の叔父が

新渡戸稲造であるということで、私の父(大作)は生前、

五千円札の肖像になった時、

「この人は、うちの親戚だからな・・・。」

と自慢げに話していたのを覚えています。




岩手に帰ってきた折には、時々、志戸平に湯治に来ていたようです。

それは、このような縁によるものかもしれません。




初代善太郎が、25才で、妻イツが17才の時といわれており、

善太郎は60才(元治元年・1864年)で亡くなりますが、

イツは明治23年の78才まで生きています。




当時の敷地は豊沢川沿いの平地

(現在の「天河の湯」から「游泉志だて」あたり)と

それを囲んでいる雑木林の約十町歩(10ha)くらいあったようですが、

温泉の源泉は対岸の岸壁からの湧泉であったようです。



今回はここまで。

次回は、当時の温泉風呂の様子について、書きたいと思います。

前回のつづき。


本家・久保田家(屋号・晴山)と温泉業のお話です。




本家・久保田家が温泉業を始めたのは、三代善助(安永7年、1778年没)の


時代に大沢温泉に温泉場を造ったという記録が残っています。




たぶん、志戸平温泉も同じ頃に所有し、木賃宿


部屋を貸すだけで薪代として宿銭を取る。)


として始めたものと思われます。




ただし、大沢温泉は本家の直営で、志戸平は番頭(支配人)営業として


代々引き継がれていったようです。




五代平助(四代、五代と平助が続きます。


安政元年、1853年没)、六代平造(明治17年、1884年没)の時代に


全盛期を迎え、前述のような豪農として栄えました。




おそらく、そんな状況の中で、志戸平温泉も宿屋を増築増床したと思われ、


この際、分家とし独り立ちさせようということになったと思われます。


そして、番頭であった者を平助の長女で、平造の姉に当たるイツの婿とする形で、


善太郎と名乗らせ、ここに直系分家11分家あるうちの10番目として志戸平・久保田家が


始まったということです。




ちなみに、いまでも本家を中心に久保田一族の直系分家11家系の付き合いは続いています。


なんか、横溝正史の小説にでも出てきそうな話ですが・・・。




次回は、いよいよ志戸平・久保田家の話へと入っていきます。乞うご期待ください。