新エミール2 | こじょるのおこじょなえぶりでい

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ClassicalHomeopathy柊舎の個人的なBlogです。
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昨日からの続きです。

 


夜泣きをなくす妙薬はない。

泣くだけ泣かせておけば治る、というのは乱暴だ。泣くのは、言葉であり訴えである。

人の言葉に耳を貸さず、訴えを無視していては、信頼は得られない。

信頼を得られないところに、良い教育は成り立たない。成り立つのは、力による支配だけだ。

もし放っておいて夜泣きが治ったとすれば、赤ん坊は失意のうちに、大人の定めた生活規則に服従するようになったにすぎぬ。




食事のマナーは、楽しく食べることに専念することから生まれる。決して、定められた形式からではない。

形式は守られていても、つまらなさそうに食べていたり、他のことに気を取られていれば、同席するものに不快な感じを与える。

たとえ手づかみで食べようと、散らかしたり、こぼしたり、立ち食いをしたとしても、いかにも愛おしそうに、夢中になって楽しんでいるならば、その姿は見ていて好ましい。

 



人間の本性をあまりにも不自然に曲げようとすると、人格に危機がくる。極限に達すると、意志を失うか神経症になるほかはなくなる。




世間では、何人も育てた経験者の口から、赤ん坊といっても一人一人違うということが流布され常識になっているのだが、公式の指導に当たる人たちの側に、その常識が恐ろしいほど欠落している。

なんといっても、権威のある指導者の言説は強いから、世間の常識は密やかに語られるだけになる。

このことが、赤ん坊への対応を不適格にしているようだ。

かんの強い活動的な子と、静かなおっとりした子とを同じように扱って、はたしてうまくいくだろうか。活発な子には、そのエネルギーにみあう活動の場と機会を与えてやらねばならぬ。

手足をばたつかせ、首をもたげたり、頭を左右に忙しく動かし、身体をよじらせるような赤ん坊は、生まれて間もないといっても寝かしっぱなしではいけない。

抱き上げて思い切り揺すぶったり、つとめて外に出して、エネルギーを発散させると良い。

とにかく、ふさわしいフィールドに出してやることだ。こうした赤ん坊は、ちょっとやそっとの運動では足りぬ。そうであるのに、活発な子に、多動的とか、落ち着きがないといった評価を下すのはどんなものか。動きを押さえにかかったら、発散されないエネルギーは、どこかに吹き出さずにはいないだろう。

行動の制限をすればするほど、金切り声をあげ、ひっくり返って泣き叫んだりする。こうしてますます困難は増し、赤ん坊への評価は手に負えない子へと進化する。




育児よりも外の仕事の方が大切だという意識は、労働をひどく矮小化する。

育児は、人間の世話をする労働だから、決して価値が低いはずはない。もし、そういう仕事を低くみる仕事があるなら、その仕事は価値を人間の生とは別のところにおいているにちがいない。

利潤のためとか、名誉のため、地位のため、権力のためといった人芸を阻害するものが目標になっているのだろう。

たとえ、人類のためといった崇高な理念を掲げる仕事であっても、それを一家庭の一人の子どもの世話よりも高いところにおくとすれば、大きな欺瞞であり偽善といえる。

このような意識に立つ外での仕事は、自分と家族の生きることは、生計のところで繋がるだけだ。

我が子には恐ろしくて与えないような食品や衣服、玩具を生産し販売してはばからぬ職業人が成立する。

医者が、他人の子には薬を浴びせるほど与え、危険な予防接種もすすめながら、我が子にはなるべく控えさせているのも同じ乖離現象だ。

生活環境を破壊したり、人類に有害な生産物を承知しながら作り出している企業は多い。

そういう仕事をしている父親が、本気で我が子に取り組んでみたらどうなるか。せめて、家にいる間だけでも、母親と対等な責任を持って育児をしたならば、大変な意識の変革が起こるだろう。

休むべき深夜に遊び始めることすらある。何をするにももたもたと時間がかかり、思うようにいかぬことがおおい。

それらにいちいちつきあい、手間をかけてやらねばならぬ。しかし、それだけのことをしてやれば、赤ん坊は確実に信頼と愛情を持って応えてくれる。ここには人間同士が生身でぶつかり合い感じあう世界がある。

この体験は、全ての父親がした方がよい。仕事上のつきあいや、憂さ晴らしの時間を減らしてでも、育児の時間をとることだ。

夜中に起こされて睡眠不足に陥ろうと、疲れが回復しにくくても、この体験は、彼の仕事に必ずいい影響をもたらすだろう。

余りに事務的な能率本位の仕事のスタイルに反省を迫るに違いない。




行儀は、人間同士の敬愛からうまれる。それのないところに行儀を持ってくるのは、いかにもそらぞらしい。

子どもに形だけのマナーを教えて、心からの敬愛のない仕草をさせるのは見るのに忍びない。

敬愛がなければ、行儀などはどうでも良いのだ。憎むべき対象ならば、むしろ遠慮せずに攻撃を加えるのが当然なのだ。

逆に、心からの敬愛があれば、マナーなどはたいした意味はなくなる。ちょっとしたまなざし、ぶっきらぼうなことば、乱暴な行為でさえも、相手にいたいほどの敬愛を感じさせることが出来る。

だから、行儀よりも、心を育てることの方を優先させるべきだ。