1月にハイチを襲った地震の惨事が連日報道されて

います。行ってみたい国の一つでしたが、政情不安が

収まらず結局行くことができませんでした。今回の

地震報道で世界最貧国の一つと初めて知りました。

貧しい国とは知っていましたが。

カリブの海で採れる貝にピンク貝、クレナイガンセキ

ボラ貝などの美しいピンク色をした貝達があります。

ハイチの地震報道を見て思い出し、倉庫から取り出し

てみました。地震報道を見て貝を思い出してはハイチ

の人々に怒られそうです。

この貝を商売にさせて貰っている一人として日本赤十

字社に僅かばかりですが救援金を送らせて貰いました

のでこれでお許し下さい。

写真の上二つの大きい貝がピンク貝、下の小さい貝

5個がクレナイガンセキです。

この美しい貝を見て救援金が増えると良いのですが。
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2ケ月ぶりにセブ島と台湾に行ってきました。


今回セブではメキシコ貝の10x14mmダエン、

10mmの丸等を日本から持ち込み二枚張り合わせて

写真①のパーツを作りました。


写真②はメキシコ貝のスクラップのクジャク部分を磨いて

裏に樹脂を貼らせました。このような貝の切りぱなしが

まだまだ倉庫の隅にあるはずです。


写真③は昔、クロチョウ貝30mm丸の

表面をダイアカットしたもので金属の空枠に嵌めて

ペンダントとして売ったものですが200枚くらい残して

空枠が足りないものに、セブで樹脂を張らせました。


写真④はマベ貝で表面の黒い部分を葉脈として残し木の葉

のパーツと黒蝶貝、白蝶貝でカメを作ってみました。

ウッドの業者にはサーフボード、オウムのパーツ等、

水牛の業者には魚釣り用の疑似餌のサンプル等、

作らせてみました。


その後、香港経由で台湾に入りました。

台湾はもっぱら中国での貝のパーツの打ち合わせです。

前に話したように中国での貝の製作者は台湾人がオーナーです。

2月14日は中国の旧正月。彼らも帰国していました。


写真⑤は12日の迪化街での旧正月用品の買い物風景です。

年末のアメ横と同じです。うず高く積まれた商品の

つまみ食いが多くてあまり売上げになっていないように

思いましたが。当方は土産にからすみを2個購入。


成田ー香港ーセブー台湾ー成田が定番のコースです。

年に1,2回、香港からバリ島、中国行きが加わります。

3月には台湾の南の高雄に古い友人を尋ねる予定です。

何年ぶりかです。息子さんが日本の大学に入学された時、

身元保証人になった関係です。

その息子さんももう50近い年のはず。

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私が最初にフィリピンに行きましたのが、

1972年であったことは前のブログで述べました。


当時のセブはKING of SHELLと呼ばれる

ロッケーカントスエンタープライズとポンセシェルノベルティ

の2社がセブのみならず、フィリピンでの貝ビジネスの大半を

押さえていたと思います。

ロッケーカントスが標本貝とか原貝部門に強くて、

ミセスポンセは貝アクセサリーに強かったと思います。


当時はこの2社に行けば殆どの仕事は出来ましたので

非常に楽でした。

私の場合主にアクセサリーが主力でしたので

ミセスポンセとの取引が大きかった訳です。

カントスの方は表敬訪問程度でしたが、

必ず顔は出していました。

何故ならば

彼がKING of SHELLだからです。


ある時にカントスから

タイラギ貝のヒーシーを見せられ、価格はUS$5.00でした。

私は1,000本のオーダーです。

US$5.00(¥300)x1,000=1,500,000円です。


次にポンセに行きますと同じものがUS$3.00です。

US$3.00(\300)x1,000本=900,000円です。

その差60万円。


私が何故このヒーシーを買ったかと申しますと、

1ケ月程まえに目黒の雅叙園に宿泊しているアフリカ人から電話があり、

そこでこのヒーシーを見、非常に興味をそそられましたが

1本US$15,00で手がだせなかったことです。


買い急いで高い買い物をした自分と

売りつけたカントスに腹が立ち、

それ以降、数年間カントスへの表敬訪問は中止となりました。


ミセスポンセとは取引を続ける内に息子のような取り扱いを受け

終にはポンセの工場内の土地にゲストハウスまで建ててくれました。

随分手厚いもてなしを受けた訳です。工場は州政庁の裏手の丘に

あり、工場には300人ほどが働いていました。

この工場のある丘をミセスポンセに因んで

今でもポンセズヒルと呼ばれています。


余談ですが私のフィリピンの運転免許書の住所は

いまでもポンセズヒルになっています。

ミセスポンセとの付き会いは彼女が死ぬまで続きました。


数年後、カントスとはあることがキッカケで付き会いが再開され、

ミセスポンセとともに忘れられないフィリピン人の一人となりました。