こんにちは。
NHK大河ドラマの「八重の桜」もまだ前半なのに、あれよあれよという間に、鳥羽・伏見により開戦した戊辰戦争中で最大のクライマックスとも言うべき会津攻めまで来てしまいました。
そんな折、会津に来る用事があったので鶴ヶ城に行ってきました。
会津といえば美しい精神と実直さを我々に見せてくれた半面、その実直さ故に幕末最大の貧乏くじを引かされた藩だということです。
会津の日帰り温泉に寄った時に見た、「あいづっこ宣言」なるものです。
一つ、人をいたわります
二つ、ありがとう ごめんなさいを言います
三つ、がまんをします
四つ、卑怯なふるまいをしません
五つ、会津を誇り 年上を敬います
六つ、夢に向かってがんぱります
そして、
「やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです」
最後の文面、これが会津の精神なのだと思います。
人間としての筋を通す気概と、新しい考え方を受け入れにくい頑固さ。
人間としての美しさと、時代の流れとのズレ。
後に会津の某の言葉、
「長州は憎い敵だが、薩摩に比べればまだマシだ。薩摩は卑怯だ。一旦は会津に味方をしておいて、手のひら返しで長州と一緒に幕府を攻めた。」
真面目なんです。一本気。
嘘も方便を貫く私には全く真似できません。
薩長は錦の御旗をあげて、鳥羽・伏見の戦いに勝ちます。
幕府側総大将の徳川慶喜は味方を見捨てて敵前逃亡。後に謹慎。
勝海舟の尽力で慶喜の首は守られ、困った西郷が振り上げてしまった拳の降ろし先に選んだのは会津、松平容保の首。
無理もありません、京都守護職として長州勢と真っ向から対立し、新撰組を預かっていた会津は池田屋事件を筆頭に、相当な怨みを買っていたからです。
会津が相手なら新政府軍の血気盛んな輩も納得します。西郷恐ろしや。
でも、松平容保にも言い分はあります。
「なんで俺が京都守護職なんてやんなきゃいけないの?京都には所司代ってのいるべ?新撰組だって、幕府の旗本が役に立たないから浪士組必要だったんじゃねえの?人に仕事押し付けて、責任まで取らせるのかよ?」って絶対に思ってたはずです。僕ならそう思う。
要は当時の幕臣は既に剣の腕も何もかも無能で、責任者である将軍も臆病者の無責任人間だったんです。
ただ、新政府軍のあまりにも理不尽な仕打ちに同情した仙台藩を筆頭とする奥羽越諸藩が会津を救うべく列藩同盟を締結。共に戦います。
これは、当然の事です。
後世から歴史を見る私でさえ会津に心から同情します。
そして、慶喜のズル賢しさと信念の無さは軽蔑する部分もあります。
ただ、歴史とは、人間とはそんな単純なものでもないのです。
そして、最新兵器を揃えた新政府軍の攻勢を前に当初三十藩ほどのうちの十数藩が寝返ります。
その他の諸藩も降伏をせざるをえなくなり、会津は単独で応戦。
まさにフルボッコ状態に。
白虎隊の悲劇とかも生まれるわけです。
そして一ヶ月程の籠城戦後、ついに降伏。
幕末の最大の貧乏クジをひいた会津。
不器用、でも人間としては一級レベルの品性を持っていた会津が貧乏くじを引いたのには訳があると思います。
私は容保に同情します。
慶喜は数々の弱点にも関わらず英明だと思います。この人が居なければ日本に火に包まれた。
勝海舟ほど、幕末において一等に評価されるべき人は居ないと思います。
西郷ほど人望厚く、人間的魅力に溢れた人はいません。
佐川官兵衛みたいな生き方がしてみたいと思います。
じゃあ、お前は立場も考え方も違う人間を皆を立てて、何が言いたいんだよ?と言われそうですね。
それの整合性をとれる考え方ってないもんですかね?(笑)
世の中の善と悪とはなんなのか?
幕末の戦乱で仮に幕府軍が勝っていた場合、本当に庶民にとって良い社会が待っていたのか?
その時点時点での善悪の判断と、後の全体にとって正しい判断は全く別物です。
だから歴史は恐ろしく難しいのです。
おわいなんしょ。意味は「いらっしゃいませ!」
オマケ:
鶴ヶ城に展示されていた松平容保直筆の書がありました。
筆跡を見て受けた印象。
まず、真面目。
部下思い。
こんな人だから、会津の為に戦い抜いた出も知れぬ新撰組の元浪士、「斎藤一」の仲人さん務めたんでしょうね。
普通あり得ないっすよ、こんな事は。
後に容保は日光東照宮で宮司さんを務めました。
穏やかな日々だったのではないでしょうか。