まちあるき新聞 -111ページ目

明石城は身近な最強の娯楽場

明石公園です。


入り口
写真は入口です。

この明石公園、なかなかのつわもので、いろんな娯楽施設が詰まっています。

僕が知っているだけでも挙げてみると


簡単なアスレチック

池(スワンボートとかある)

将棋サークル(おじいちゃんたちがやっている)

園芸コーナー

図書館

競輪の練習場

隣に博物館

櫓(指定日のみ開放)

石垣(家紋が入っている石を見つけると興奮する)

軟式野球場

陸上トラック

豊富な散歩コース

日時計

たくさんの桜の木

……


当然、入場は無料。

歩いているだけで楽しい。

僕は、特に赤レンガで出来た明石図書館が大好き。

幼稚園の頃からお世話になってます。

また今度、写真撮ってきます。

図書館へ続く道から、コルビジュエっぽいファザードが見えるのですが、

それがまた、かっこいいのです。

ミッドナイト・エクスプレス ★★★★

久々に映画を観ました。

宣伝会議賞に時間を割いてたから、映画と読書が嬉しい。

先週から週末、リラックスしています。


世界旅行に行く人が読んでしまう本。

沢木耕太郎の「深夜特急」。

深夜特急、英訳してミッドナイトエクスプレス。

でも、映画のミッドナイトエクスプレス、沢木耕太郎のと全然違ので、

バックパッカーのワクワク感を楽しみたい方、気をつけてくださいね。


これはアメリカとトルコの国際問題を含んだシリアスな映画。

いくらシリアス系が好きでも、それだけじゃ生意気鑑賞者は、★★★★をつけません。

つけるのには理由があります。

高評価の原因は、バックパッカーに感じたことが蘇ってきたからです。

しかも、それは日本でも、ふと感じる一種の恐ろしさにつながっていることに気づいたからです。

ここまでは抽象的な話。

面白くないです。

噛みくだいていきますよ、僕のために、あなたのために。


ミッドナイト・エクスプレスと世界旅行で感じたことと、

日本でも感じることの共通点とは、

「自分が感じていることって本当なの?」って主観性を疑ってしまうことです。

この内容、物理やったことある人なら、思い出しませんか?

そう、相対性理論にそっくりです。

ここで相対性理論の話をしてもしょうもないので、

乱暴に要約してしまいます。、

「ものごとは何一つ絶対なものなんてないんですよ、(光の速さを除いては)」ってことです。


僕が世界旅行したときの実感の話。

「旅行者は、環境や人の気まぐれで死んだり、生きたりする」

ということをしょっちゅう感じていました。

お金を持っていたって、

日本人というアドバンテージがあったって、

所詮、僕の命は彼らの手にあるという不安。

いつも感じるわけじゃない。

いつも感じてたら気がふれてしまう。

普段はお金もあって、パスポートも強くて、安全だと思っている。

でも、それはまやかし。

夜が更ける。

国境を越える。

情報を得る。

電車の切符を買う。

どんな場面だって危険が潜んでいる。

ある国の経験地が低いと、旅行者は自分がとっている行動の妥当性を客観的に計るのが難しい。

騙されたりするのは、これが原因。

物差しがないから、正確な長さを測れないのとそっくり。

客観性が足りなくて、主観性が先行してるのです。

しかも経験地を貯めて手に入れた物差しも、相手によっては全く意味が無いものになってしまう。

状況はめまぐるしく相対的に変わっていきました。

日本だとそこまでひどくはないけど、あることはあると思っています。

しかも、それはもう少しでやってくる。

不謹慎かもしれないけど、書きます。

不況下におけるリストラが、それだと思う。

「自分の位置の把握+足りない能力を獲得する意欲」

が足りない人が危ない気がします。(僕はすぐ楽したがるから、危ないのだ、きっと)


言いたいことは、「危険だとか、死だとかはすぐそばにある」ということ。

ずっとそんなこと考えても、杞憂で終わることがほとんどだけれど、

実際に危険はすぐそばにあって、喉元にナイフをつきつける瞬間を狙ってる。

世界旅行のときは、特に国境越え、新しい町に入るときは神経を研ぎ澄ましてた。

それを僕は今やらなければいけないのだ。


この映画の主人公は、国際問題や看守の気分など、自分でコントロールできない要素に振り回された。

自分の力でどうすることもできない暴力に生活が壊されることほど怖いことは無い。

そう、途方もない理不尽さの恐怖は、映画の中の話だけではないと、思い起こさせてくれたのです。

そして、できる限りのことをするべきだとも。


だって、広告費が削られるこの時勢のなかで、コピーライターになりたいなんて、

傍から見たら、無謀の何者でもないから。

でも、なりたいものはなりたいんだという気持ちを押さえることはできない。


国境を安全に超えると、そこには素晴らしい文化があった。

無謀と分かっていてもやるしかないし、やりたいのだ。


それにしても、この頃、いろんなことを夢につなげてしまうな。

暑苦しい。

筑紫哲也さんへ

北野武さんが、筑紫哲也氏に対して「王道だ」ということを話していた。

「王道」

なるほどと思った。

筑紫さんが務めるNews23には何かこう、ニュースの本家本元のような力を感じることができたからだ。


だからといって、News23を毎日熱心に見てたわけではない。

ニュースステーションやNewsZEROも見てたし、今でも見ている。

でも、ふと今考えてみたら、

いろんなニュース番組でニュース名とメインキャスターが対で出てくるのは久米宏氏と筑紫さんだけだった。


エンターテイメント性が高い久米さん。

王道の筑紫さん。

思想や言葉の他に、人間としての魅力が伝わってきたから、好きだったのだと思う。


僕はチャンネルを頻繁に変えてしまう悪癖があるのだけれど、

たまたま「他事争論」にぶつかったときには、間違いなく手を止めた。

なぜか?

今なら分かる。

他事争論には「気づきや発見」があったからだ。


今夜、筑紫さんの追悼番組があった。

僕は転職活動のための書類をつくるために、今日、仕事を早めに切り上げて帰ってきた。

でも、そのために時間を使えなかった。

しかし、それはそれでよかったと思っている。


最後の他事争論にも気づきがあった。

冒頭しばらく、本題に入らず話す筑紫さんがいた。

TVコメントの長さについてだったり、欲求不満だったという打ち明け話だったり。

普段の他事争論では、物事の捉え方や情報、知識、を気づきとして受け取っていたと思う。

最後の他事争論でも、新しい知識や、

政治は世代間での牌の取り合いだという見方を知ったりしたのだが、

今日の気づきは今までのものと違った。


筑紫さんは、最後に

「いくらなんでも長いんで今日はこんなところで」

と締めくくっていた。

もう亡くなってしまっているのに、画面の向こうでは元気な筑紫さんが映っている。

「いくら長くても、全くもってかまわない。もっと聞かせて欲しい」

とTVに気持ちを送ってしまった。


そう、ここなのだ。

聞き手がもっと聞きたいと思ってしまう、そうさせる魅力は、

人そのものなのだと。

正しい方向性や、情報量は二の次で(確かに大事だが)、

僕は筑紫さんのしゃべる話を聞きたかった。もっと極端に言えば、声という音だけでも聞きたかった。

筑紫哲也という人が話すことよりも、筑紫哲也という存在がでかいのだ。

これが今日の気づきだった。

存在そのものが言葉を越えるってこと、そうそう起こらない。


井上陽水さんの「最後のニュース」が流れるなか、

最後の他事争論の終わりのほうで、

「このくらいしゃべると…うんまああの、やや欲求不満がなくなると」

といった直後の小さな笑いを思い出していた。

見ていた僕も笑ってしまった。

最高やな、筑紫さん。愛嬌、たっぷりやん。


そんなとき

「ああ、筑紫さんは昔、本阿弥光悦だったのかもしれない」

と感じてしまった。

癌なんてこの世に無ければ、自ら村長を務める筑紫村を作ってほしかったな。

筑紫村にはいろんな人がいるのだ。

芸術家、スポーツ選手、思想家、ビジネスマンも政治家だっている。

筑紫マインドに賛成する人も反対する人もいるのだ。

意見は論じられるが人間は憎まない、正しい論議が繰り返される村。

いろんな人の視点を理解するから、

牌の配分についても理解を示す政治。

「与党の意見だから、反対」

みたいな非生産的な話し合いは行われない。


筑紫さんは村長みたいなリーダーを任されたら、断っただろうか。

恥ずかしがって、「立花さんや鳥越さんのほうが適任だよ」と笑って拒んだだろうか。

そんな気がする。

それでも、僕はお願いしたい。

幅広い知識と使命感と価値観と、そして優しさを併せ持つ人はなかなかいない。



とまあ、こんなに思いつきで筑紫さんにわがままをぶつけたのは、

もっともっと長く生きてほしかったという悔しさがこみ上げるからです。

今週末は、筑紫さんの本を読んでみようかな。

そして、筑紫さんの考えに対して僕の考えを書いてみよう。



もっともっとNews23を見ておけばよかった。




これ以上書いても、なんだか涙が出てきそうなので、

今日はこんなところです。