あの日夢見た10年先へ【2nd season】 -2ページ目

葬儀屋が母の遺体を自宅に引き取りに来た日。

母の火葬式から、10日間が経ちました。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っています。

 


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昼食を食べ終わった頃、母の中学時代の女友達が

母の顔を見に来てくれた。



現在、横浜で夫と娘家族と住んでいる女性だ。



母が余命宣告を受けた後、逝去後は

何かあったら彼女に頼りなさいと、

母の計らいで先月に顔合わせをしていた。



介護ベッドに横たわる母に手を合わせ、涙ぐむ。



母を横目に、色んな学生時代の話をしてくれた。



母が英語の教師をしていた時のこと。


コカコーラ会社の秘書をしていた時のこと。



今まで知り得なかった僕が生まれる前の

母のことを幾つか教えてもらった。



母はベッド上で薄っすらと笑みを浮かべていた。




それから僕の友達で、母と面識のある

仲間や知り合いが、立て続けに来てくれた。



今日までずっと一人で母と向き合ってきて

何処にも吐き出す場所がなかった僕は


皆の訪問に安堵したのか、一言口を開く度に

わんわん泣いてしまっていた。



皆、よく頑張ったねって、お疲れ様って

どんな話も優しく聞いて、受け入れてくれた。




あっという間に夕方になって、

葬儀屋が母の遺体を引き取りに来た。



スタッフが2人がかりで、母を持ち上げ、

玄関先のストレッチャーに乗せて車に積み込む。




“安全に運転して霊安室に保管しておきます”



そう残して、母は居なくなった。




さっきまで、皆が居て、母も居たのに

部屋に、ぽつんと残された僕は

急に寂しさに襲われた。



だって、3ヶ月近く、毎日一緒に居た。



急に1人になった僕は、空虚感に包まれる。





母はどんな気持ちで過ごしてきたんだろう。



難病診断されてから2年近く、

この部屋で、このベッドで、1人で過ごしてきた。



両親も居ず、夫も友達とも疎遠で、唯一の

心の支えだった僕からも素っ気なくされていた。




「旅行に連れて行って欲しい。」


「2人で食事に行きたい。」




様々な願望を電話や会う度に言われ続け、

その時間を作ろうとするも、


母の圧力に耐えきれなくなり、

僕は母を避けるようになっていた。



周りは口を揃えて言ってくれる。


親の要望に全て応えなくても良いし、

応えれなかったことに、悩み続ける必要はない。



十分に親孝行をしてきた。



3ヶ月近くも、仕事や私事をセーブして

毎日一緒に居た、それだけで喜んでるよ。



僕を慰めるように、周りからは散々そう言われた。




けど、僕にしか分からないこともある。



もっとしてやれたという後悔は拭えない。



母はきっと、そんなことくらいでは、

心から喜ばないのは僕が良く知っている。



この3ヶ月の介護は、これまで母の想いに100%

応えれなかった、せめてもの償い程度に過ぎない。



母の寂しかった気持ちを味わうために、

母が寝ていたベッドで寝てみる。



悲しかった、胸が痛かった。




母が過ごしてきた辛さや、やるせなさ、

色んな気持ちを自己投影させてみる。



今日はここで、この気持ちと向き合いながら

火葬式の時間まで、寄り添おうと思った。



それが母に対する、せめてもの償い。



僕は頭が変になっているのだろうか。



永遠に報われることがない

無限ループに陥っていくようだった。








母と食べる最期の手作り料理、肉じゃが。

727日に、母の肉体が火葬されてから

1週間が経ちました。


未だ悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っています。

 


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母が逝去した25日、

西日本では、梅雨が明けた。



関東は台風6号の影響で梅雨明けはないが

26日、今日の天気は夏模様だった。



僕は中目黒のスーパーで食材を仕入れて

目黒川沿いを歩いて帰る。



蝉の鳴き声が梅雨明けを象徴していた。



広島生まれの母は、西日本の梅雨明け前に

霧雨に身を隠しながら、

本当に月へ昇っていったようだった。



緩和ケア病棟に入る前の2ヶ月間は

自宅介護で、毎日のように僕が

母の食事を作っていた。



じゃが芋が好きで、ポテトサラダなど

料理を好んでいた母。



僕が作る料理の中でも、お気に入りだった

肉じゃがを、最期に作ってあげようと思った。



薄味で、育ってきた母。


関西の味に慣れているグルメな母の口は

多少のことでは美味しいと言わなかった。



僕もまた、母の薄味に育てられてきたので、

上京時、甘すぎる関東の味に驚きながらも

いつの間にか、こちらの味覚になっていた。



しかし、母と過ごしたこの3ヶ月で

素材の味を生かした料理作りを

改めて教えられたような気がした。



肉じゃがでも、砂糖は一切使わない。

白麹と、みりんとらっきょ酢を砂糖代わりにする。


玉ねぎを良く炒めれば、更に甘みは増す。


じゃが芋と人参はしっかりと水に浸け、

母のために、かなり柔らかくなるまで煮込んだ。



お肉は、母が指定していた霧島豚を使用。



最近は、煮込む前に電子レンジで温めれば

煮込む時間を短縮できる

タッパーウェアがあるので便利になった。



昼からは僕の仲間や母の友達が、

最期の挨拶へ来てくれるので、時短で作る。



最期の2人で過ごす食事の時間。



母のベッドの横に小さな机を置いて

肉じゃがを盛りつけ手を合わせた。



“いただきます”


僕の声しか聞こえないけど

きっと母も一緒に言っているだろう。




僕は口にじゃが芋を入れる。



今日も美味しくできた。



否、今までで一番おいしいのではないか。




「星5つです★」




母が僕の料理を口に含みながら、

無邪気に言い放つ声が聞こえて来る。



ベッドに横たわった母が今にも起きて

笑い出すようだった。



これから何度も思い出すんだろう。



思い出さない日はないんだろう。




鍋に残された肉じゃがは、母の無念を

訴えてくるようだった。




「元気だったら、ペロリと食べるのにねぇ」




体調のせいで、食べきることができず、


いつも残念そうに言っていた母の声が


聞こえてくるようだった。







その日は一晩中、母の遺体の横に寄り添って眠った。

727日に、母の肉体が火葬されてから

今日で丁度、1週間が経ちました。



未だ悲しみが減ることはありませんが、


自分の気持ちに整理をつけるために、


前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っています。

 


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母の遺体を乗せた搬送車は

母宅マンションの道路に横付けた。



葬儀屋に母を部屋に運べるか否かを確認すべく

僕はオートロックを解除し、案内する。



廊下の幅的に、母を乗せたストレッチャーは

カーブを曲がりきらないだろと、

葬儀屋は、残念そうに目を落とす。



僕は自宅か葬儀屋の霊安室への誘導を考えたが

出来れば肉体のある最後の夜は、

母の住み慣れた家で過ごさせてあげたかった。



その想いを伝え、僕と葬儀屋は、

ストレッチャーから寝た状態で母を下ろし

2人掛かりで、部屋まで運ぶことにした。



2年前から難病を患い、40kg程だった体重は

更に軽くなり、30kg程の重さしかなかった。



その軽さが何だかとても切なくて

“ほんとに良く頑張ったね”と小さく呟く。




腐敗を防ぐため、体に巻かれたドライアイスと

20℃に設定した肌寒い部屋で、

僕は母と2人きりになった。



母の肉体と、最後の別れをしようと、

遺体の横に寄り添って、寝そべる。



子供の時、良く一緒に寝ていたように、

ひとつの布団の中で、色々な話をした。



魂の抜けた後、仰向けの体勢だと

重力でそうなるのか、時間が経つ度、

口元の広角は上がり、穏やかな顔になっていった。




ろうそくが揺れる陽炎に照らされた、

ほんのり笑ったように見える母の顔。


今にも動きだし、声が聞こえてきそうだった。




小学生時代に

お爺ちゃんと3人で行った遊園地の話。



中学時代に

お婆ちゃんも交えて行った岩城島の話。



高校時代に

初めて紹介した僕の大切だった彼女の話。



大学時代に

一人暮らしを始めた僕が住む大阪へ

母が遊びに来てくれた時の話。



卒業後、

母を東京に呼んで、一緒に住み始めた時の話。




僕はずっと泣いていた。



楽しかった頃の話をしているのに

涙が止まらなかった。




もうこんな過去の話を母とするのは

今日が最後だから。




僕の吐く息が母に伝わり、

呼吸をしているようだった。



今にも動き出すようで、

僕は何度も話しかけた。



数時間前までは動いていたのに、

当然のように、もう動くことはなかった。




何時間くらい経っただろう。




白々しく朝の光が差し込む。




あまり眠れなかった。




12時間後には、葬儀屋が母の遺体を

霊安室に保管すべく、引き取りにやって来る。




長時間、自宅に置いておくと肉体は腐敗する。


火葬式の時、綺麗な状態でいるために、

一旦、お別れをしなければならなかった。




僕は駅前のスーパーと花屋で母の大好きだった

薔薇と肉じゃがの材料を買ってくる。



残された時間を気にしながら

母と過ごす最後の朝食を作ろうとしていた。





最後の夜に、自分のわだかまりの全てを母に話そう。

725日、19:13分、母は、僕に手を握られ、

見守られながら、逝去しました。



母は昏睡状態になる寸前、逝去する5日前まで

僕のブログを楽しみに見ていました。


自分と同じ病気の人が、

同じ道を辿って欲しくない。


だから、ありのままを書き続けてほしい、

自分が犠牲になる意味が何処かで

見いだせるかもしれないと言っていました。


きっと自分の生きた証を残してほしい

そういうこともあったんだと思います。


このブログを僕が書き続けているのは、

生前の母の意思です。



読んでいただけている皆様に、感謝致します。



未だ、悲しみが減ることはありませんが、

自分の気持ちに整理をつけるために、

前に進むために書いています。



弔事で書き損じていた逝去後のブログを

連続して、綴っていきたいと思います。

 

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深夜2230分、病院を出発した搬送車は

銀座ICに乗り入れようとしていた。



西日本は今日25日に梅雨明け宣言をしたが

関東は台風6号の影響で、未だ梅雨の中にいる。



それでも今日の気温は30℃を越え、

暑いはずなのに時折、雨風が混じり、

肌寒くも感じる不思議な気候だった。



移動中、車内から外を見ると、台風が訪れる前の

形容し難い、不思議な空が広がっていた。



まるで、僕の心模様のような空。





とっくに覚悟を決めていたはずだった。



その時期が訪れるのが早過ぎたとしても、

親の死は、誰もが経験すること。



親の死で後悔しない子どもなんていない

誰もが通る道、乗り越えれるはずだと。



色々と悟ったつもりで、

母が亡くなる何日も前から、その時が来ても

大丈夫だと自分に言い聞かせていた。





浜離宮を越え、

浜崎橋JCの大きなカーブに差し掛かかる。



車体と共に母を支えるストレッチャーが

カーブに合わせて大きく揺れる。


その覚悟があったはずの僕の気持ちも

車体と同様に、大きく揺れていた。




母が最後まで発していた言葉、



「喉がカラカラお水



僕はそう言われる度に、炊事室の冷凍庫まで

取りに行っていた氷の残りを握りしめていた。



母はどんな気持ちだったんだろう。



僕は母が食べ残した氷のパックを冷蔵庫から

持ってきていた。



ひとかけらだけ、口に含んでみる。



小さな氷の粒は、口の中、数秒で溶けて無くなる




投薬ですぐに吐き出す体質になったせいで

水も飲めなくなった、母の由一の水分補給。



「たったこれだけの水分じゃ辛かったよね



「お母さん、良く頑張ったね




白い布をかけられベルトで固定された母を横目に

色んな言葉を投げかける僕。



精神の安定しない患者のようだった。



運転手も僕の上の空のような呟きを

見て見ないふりをしてくれる。



僕は入院する1ヶ月前、病院に向かう車内で

今と同様、ストレッチャーにくくりつけられ

病院まで搬送された母の姿を回想していた。




隣に居た僕に、小刻みに震えた手を差し出し



「手を握ってくれる?」



甘えを一切言わない気高い母の弱った声が

再び、聞こえた気がした。





浜離宮の恩賜庭園を左手に確認しながら

僕は白い布の間から手を通し、

冷たくなった母の手を握っていた。



平日の空いた道路は、あっという間に僕らを

目黒区まで運んでくれた。



目黒ICを降り、目黒通りを走り出す。



見慣れた景色の中で僕は

1ヶ月半前、緩和病棟の見学で


僕の車の後ろに乗せた母が17年間過ごした

目黒区を回想し涙を拭いたシーンを思い出す。



そんな今までの思い出が、止めどなく溢れだし

家に到着するまでの目黒通りを走行する10分が

とても長く感じた。




葬儀屋が、母の家に遺体を運び入れる。



腐敗を防ぐため母の体にドライアイスを巻きつける。



部屋の温度は霊安室と同じように20℃以下設定に。



明後日の火葬式の打ち合わせをした後、

葬儀屋はお悔やみの言葉を告げて帰って行った。




今日は母と過ごす最後の夜になる。



何かの本で読んだことを思い出す。


母の遺体の横に寄り添って眠る母と子の物語。



自分もそれをしてみようと思った。



最後の夜に、自分のわだかまりの全てを話そう。



そう決めて電気を消した。






僕は、母の黄色く冷たくなった顔へ、化粧を施してあげた。

信じられないことに、昨日のブログ訪問者は

更に伸び続け、ランキング1位を獲得しました。

 

いつも、稚拙な文章で綴られた

僕のブログを読んで頂き、感謝致します。

 

1人でも多くの方に、読んでいただき、

母も喜んでいると思います。

 

未だ悲しみが減ることはありませんが、

弔事で書き損じていた24,25,26日のブログを

連続して、綴っていきたいと思います。

 

****

 

 

母が逝去して30分が過ぎた頃、

放心状態だった僕と、母の元に、

看護師が来て、お悔やみの言葉を告げていく。

 

 

担当医も、夜勤で別の場所に居たにも関わらず、

病室へ遅れて駆けつけてくれた。

 

 

この1ヶ月、毎日側に居続けたこと、

逝くその瞬間まで、傍に居たこと

 

息子さんの想いはちゃんと伝わっていて

一恵さんは喜ばれてると思いますよ。

 

 

僕の気持ちを察しながら、残念そうな面持ちで

 

優しく声をかけてくれる。

 

 

きっと、お母様は、そんな息子さんの気持ちを

返すために、最後の力を振り絞って、

逝く寸前に息子さんの顔を見られたのですよ。

 

未だかつて、朦朧状態の末期癌患者、

しかも肝機能が弱った、せん妄レベルⅤの患者が

母と同じような行動を起こした前例がないと。

 

 

佐藤さん達お2人だから、できたのですよ。

 

 

あの瞬間の母の声と眼差しを、

僕はこの先、忘れることはないだろう。

 

 

 

「お母様の体を、綺麗に拭きましょう。」

 

 

そう言って、看護師3名がかりで、

母の顔や体をアロマの香りを含ませたタオルで

丁寧に拭き取ってくれる。

 

 

「息子さんも拭きますか?」

 

 

そう言われて、僕も一緒に母の体を拭く。

 

 

毎日のようにマッサージしていた母の足。

日を追うごとに、腫れていった足裏。

 

 

逝去する1週間前は、余りにもむくれ過ぎて

もう指が通らないくらいになっていた。

 

それが何故か、この時は水が抜けて、

通常の足のサイズに戻っていた。

 

 

 

逝去する3,4日前から、もうマッサージも

できなくなっていたので、無意味と知りながらも

その時間を取り返すように、

僕は拭きながら、軽く指圧してあげる。

 

 

食べることも、見ることもできなくなった

逝去10日前に、母が言っていた言葉を思い出す。

 

 

 

「今はもう、あんたのマッサージだけが

                      生き甲斐だわぁ」

 

 

 

今、目の前にいる母とそんな話をしていたのに、

余りにも早い病気の進行に頭はついていかない。

 

 

今にもまた、動き出すのではないかと

奇跡を願いながら、手を拭いてあげる。

 

 

30分前、微かに残っていた

手の温もりは完全に消え、更に冷たくなった

母の手を握り、現実を痛感する。

 

 

看護師は、手慣れた手つきで、

敬意を払いながら、病院服を丁寧に脱がし、

入院時に母が着てた服を着せていく。

 

 

そして黄疸で真っ黄色になった母の顔へ

化粧を施してくれた。

 

 

「息子さんも、お母様にお化粧されますか?」

 

 

その言葉を受け、僕は母の黄色くなった顔へ

白粉を塗ってあげる。

 

 

紫色になってしまった唇に、

僕は口紅を施してあげた。

 

 

生まれて初めて化粧を施す相手が、母であって

命を失った後のこの瞬間であろうなんて

一体誰が想像しただろう。

 

 

切なさが込み上げてきて、最後まで

静かに目を閉じた母へ

化粧を完了させることはできなかった。

 

 

 

目を閉じ、薄っすらと笑みを浮かべたその姿が

余りにも、安らかで、また涙が溢れ出す。

 

 

 

どれだけの時間が経っただろう。

 

 

僕は病室を出て、

予め手配していた葬儀屋に電話をかける。

 

 

40分程でストレッチャーをひいた

葬儀屋スタッフが深妙な面持ちで来てくれた。

 

 

医師や看護師に見送られ、

僕と母は、搬送車に乗り込む。

 

 

「医療チームの皆様の優しさとケアで

安心して母は逝くことができました」

 

 

感謝を伝えると、看護師が一斉に頭を下げる。

 

 

その様子を見届け、

車は母の自宅へ向かって走り出した。

 

 

「お母さん、今まで良く頑張ったね。」

 

 

「やっと家に帰れるね。」

 

 

10人乗りの大きなワゴン車は

あの時よりも更に軽くなった

1人分の体重にも満たない小さな母を乗せ、

1ヶ月前に来た道を折り返していった。

 

 

 

 

 

 

母は、亡くなる寸前まで楽な方へ逃げることを拒み続け、強く生きた。

信じられないことに、昨日のブログ訪問者は

一昨日の5倍近く、5万人にも登りました。

 

1人でも多くの方に、読んでいただき、

母も喜んでいると思います。

 

気にしていただけている皆様に、感謝致します。

 

未だ悲しみが減ることはありませんが、

 

弔事で書き損じていた24,25,26日のブログを

連続して、綴っていきたいと思います。

 

 

****

 

 

母が完全に呼吸をしなくなった時、

時計を見ると19:13分だった。

 

 

母が息を引き取った後も、僕は動くことができず

母に抱きついたまま、しばらく泣き続けた。

 

 

時計は19:30をまわっていた。

 

 

瞼は重く、涙で霞んだ僕の瞳は、

時計の針が何本もあるように見えていた。

 

 

そんな状態でナースコールを探し、鳴らす。

 

 

夜なので、看護師や医師も出払っているのか

15分以上、母と2人きりの時間が続く。

 

 

僕らは世間から見放されたようだった。

 

 

その間、握りしめていた母の手は

どんどん冷たくなっていく。

 

 

そんな現実が切なくて、

これが現実に起きていることなのか夢なのか

分からなくなりそうだった。

 

 

 

 

医師が駆けつけ、死亡確認を宣告された時間は

19:47分だった。

 

 

僕はこれから

 

毎日、毎月、毎年、

 

この時間、この日にち、この季節になると、

 

思い出すのだろう。

 

 

 

少しでもちゃんとした頭の状態でいたい、

 

少しでも長く、僕と自分の意思で話していたい、

 

その想いで、寸前まで医療麻薬を拒んでいた母。

 

 

普通なら、苦しみたくないから楽な方へ行く。

 

 

緩和ケア病棟なんだから、苦しみを取り、

できるだけ最期は自分のしたいことをする。

 

 

 

その方針に最後まで抗いつづけた。

 

 

苦しみ続けた。

 

 

母は、不器用な生き方しかできなかった。

 

 

 

人一倍、我慢強くて、しなくていい我慢を

これまでも、ずっとし続けてきた。

 

 

楽な方へ逃げることを拒み続け、強く生きた。

 

 

そんな母をこの38年間ずっと側で見ながら、

父親変わりも担ってくれていたんだと思う。

 

厳しく言われてきたことも、

全て子育ての一環だった。

 

 

もっと楽すれば良いのにと疎んだこともあった。

 

けど、今はそれも母の個性で、

最後まで自分の信念を貫き通せて良かったのかな

少しだけ、そう思えるようになった。

 

 

 

通常はベッドで寝たきり状態になるのに、

母は亡くなる3,4日前まで、

 

 

僕に頼み、体を起こさせベッドサイドに、

ピンと姿勢を正して座っていた。

 

 

薬の影響と臓器の弱りで、容赦なく睡魔は襲う。

 

 

何度も前に後ろに倒れそうになりながら

意識を取り戻し、ぴんと姿勢を張って

座り続けようとした。

 

 

もっと楽して下さいと言い続けた医師も看護師も

最後の方は、何て気丈で、聡明な人なんだと

母の意思を尊重し、その様子を見守ってくれた。

 

 

自分を律し続け、

眉間に深く深く刻まれてしまった皺は、

 

 

逝去後、時間と共に、

安らかな顔になっていった。

 

 

 

 

お母さん、今まで、よく頑張ったね。

 

 

 

これで、やっと楽ができるね。

 

 

 

 

 

 

 

 

最期、息をひきとる瞬間に、母は大きく目を見開いた。

火葬式から3日が経過しました。


関東では昨日より梅雨が明けましたが、

未だ僕の心は霧雨の中にいます。



未だ悲しみが減ることはありませんが、


弔事で書き損じていた24,25,26日のブログを

連続してで、綴っていきたいと思います。


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25日、始発で自宅に戻り、

母の遺影写真の現像作業に取り掛かる。



母の病状を見て、先にしておいた方が良いことを

区役所や金融機関が開く前に準備していた。



思うように進まない区役所の手続きなどで

病院に戻ってきた時は15時だった。




看護師に母の容態を聞くと午前中、血圧が47まで

下がったらしく、その後は65前後を推移。



60前後が、もうお別れの時だと聞いていたので

僕はこれまで言えなかったことを話し出した。




何を言ってるか分からなくても、

聴覚は最後まで残るとのこと、


これまでの思い出を一方的に語りだしていた。



話しながら、何度も何度も涙が溢れてきた。



それでも話し続けた。




医師や看護師も母の最期の時を分かっているのか、

入れ替わりで病室へ訪れる。



僕は母の側にずっと居てあげれば良いものを

合間で、お坊さんや葬儀屋に連絡したり、

母の友達に電話したりしていた。



そういった手続きは、母が亡くなった後に

全て自分がしないといかないので、


生前にしておかないといけないといけないと

何でも先回りする癖がこんな時に出てしまう。




最後に僕が電話をするために

病室を出たのは18:45分。




その時、母が大きく唸り声をあげた。



行かないでって言ってる気がして、

早めに電話を切り上げて19時前に病室に戻る。




すると、母の呼吸が、吐いて吸うまでに

2秒、3秒と感覚が開いていっていた。




僕はいよいよ最後だなと悟った。




涙が止まらなかった。





母の手を握り、最期のお別れを話し出した。




15分の短い時間だった。




今まで一緒に過ごして楽しかったことへの感謝。



もっと一緒に旅行したり、映画を見たり、

友達みたいに過ごしてあげられなかった後悔、


何度もごめんねと、ありがとうを繰り返した。




また来世で会おうねって。



その時は一緒に楽しいことしようねって。



母が意識のある時に、

病院で何度も話したことを復唱した。




母はもう身体中の筋肉が弱っていて、

目も口も閉じれず、開けっ放しだった。



1/3ほど開かれた目は、魂が抜けたようで

焦点はあっていない。



吐く息と一緒に出ていた声も、

何も発しなくなっていた。





それが最期、



息をひきとる瞬間に、



母は大きく目を見開いた。




この3日間、僕の顔を一度も

見ることができなかった母が、


目を見開き、目の前の僕を見た。



もう目を合わすことなんてできないはずの母が

僕の方を、しっかりと見ていた。



魂の抜けていた母の黒目に一瞬、魂が宿る。




そして、「あ゛あ゛



大きく声を発した。





目からは黄色い涙が一筋、流れ落ちた。





せん妄レベル5の患者が、こういった行動を

起こすことは過去に例がないと聞いていた。




母は、きっと最期の力を振り絞って、

僕を見てくれたんだ。




そして、感謝の言葉を伝えるために



ありきたりの力で


言葉にしようとしてくれたんだ。




最後まで気丈で、気高かった母。




僕は母が息を引き取った後も、


母に抱きついたまま、泣き続けた。




母の身体は分毎にどんどん冷たくなっていく。




握っていた手も、


もう暖かくなることはなかった。






母が逝去した前日の出来事。


母が逝去した25日から弔事が続き、

3日が経過、少しだけ気持ちが落ち着きました。


未だ悲しみが減ることはありませんが、


書き損じていた24,25,26日のブログを

今日から連続で綴っていきたいと思います。



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24日、病室泊はせず、帰宅する日にしていた。



交代要員がいるならまだしも、僕の体はひとつ。



毎日泊まるのは支障を来すということで

母から、本当は毎日、居て欲しいけど、

病院泊は1日置きで良いと言われていた。



しかし、今日は今までにはなかった

痰が喉に詰まるようになっていた。



引っかかって呼吸停止するのではないかという

瞬間が何度かあり、一日中気が気じゃない。



息をするたびに、うなり声がでる。


声帯の筋肉が弱っているために、息を吐く時に

声まで一緒に出る。




目の筋肉も弱っているせいで、瞳は閉じれず、

半分に開かれた瞳の焦点は合っていない。


毎日見ていても、慣れることはなく

その姿はとても辛かった。




母の唯一の生き甲斐だった

僕の飼い猫・まろんのインスタグラム。


毎日更新されるのを楽しみにしていた。



会いたくても会えない悩みを解消すべく

1週間くらい前に、僕宅にカメラを取り付け、

様子を見ながら話せる環境にした。



しかし、それを楽しめたのも数日間のみ。

もう携帯を触る力も無くなっていた。


そこで考えたのは、まろんの鳴き声を録音、

耳元で母に聞いてもらうという方法だった。



まろんは、こちらが話しかければ返事をする。



にゃあだけではなく、にゃあにゃあとか

にゃっにゃとか、ワン!とか様々な言語を操る。



なので、僕が母の病状を話し、それに対して

まろんが返答している様子を録音したのだ。



2日前は、それを聴かせてあげると、

体がしんどくて、必要最低限のことしか喋れず

しかめっ面だった母も、人が変わったように



「わぁ、まろん!まろん!可愛い声だねぇ」



と、呂律がまわらない中、

必死で声に出して喜んでいた。



この時は、これが母の最期の笑顔になるとは

思わなかった。


考えたくなかった。




今日、同じく、まろんの音声を流しても

何の反応もない。



さらには、夜の検診で、母の血圧は

100を切り、70前後を推移していた。



医師が、今日明日は連泊した方が良いと助言。



しかしながら、深夜の検診で85まで回復。


僕は翌朝、母の生前にしておかないといけない

銀行や区役所の手続きがあるので一旦、

帰らざる終えなかった。



後ろ髪を引かれながら

日比谷線で中目黒まで戻り、

電車を降りた途端、病院から電話が鳴った。



聞くところによると、僕が帰った後、

痰を吸引したら、血圧が64まで低下、

直ぐに戻ってきて下さいと看護師からだった。



僕は血相を変え、反対ホームの列車で折り返す。



病室に戻ると、血圧は78まで回復しており

呼吸はさっきよりもずっと綺麗になっていた。



しかし相変わらず、話しかけても反応はない。



心配で眠れぬまま、母の横に、いつものように

簡易ベッドを敷き、横になる。



前日のように、喉がからからだとか

トイレに行きたいなど、何の要求もない。



呼吸を聞いていると、感覚が酷くゆっくりで、

2秒ほど、静かになる時が、何度かあった。



余り眠れないまま、数時間後、

翌日の用事を遂行するために、


何かあったら直ぐに電話をして欲しいと

看護師に伝え、始発に乗るため、病室を出る。



母に少しだけ出て戻ってくるねと伝えて、

ベッドに目を向ける。



すると、末期癌患者が発症する羽ばたき振戦、

昨夜まであんなにも痙攣していた手も足も

揺れは止まっていた。



昏睡ステージの推移が余りにも早すぎる。

1日置きに、状況が重く推移していく。



僕はその場に残った方が良いのか、

予定を遂行するべきなのか迷った。



けれど、母ならきっと行きなさいと言うだろう。

亡くなった後だと手続きが大変になるから。



再び後ろ髪を引かれながら、病室を後にする。



エレベーター待ちで、後ろに飾られた絵を見ながら

母と過ごした幼少期を鮮やかに思い出していた。







母への手紙。火葬式を終えて。


丁度、24時間前の昨日、斎場で火葬式を

執り行い、母は遺骨となりました。



25日に逝去してから、2日間、

自宅を霊安室のように凍らして、安置し、

夜は隣に寄り添って一緒に眠りました。



自分がまだ小さかった頃、

こんな風に同じ布団で寝たねって言いながら、

昔の思い出話をしました。



楽しかった時の話ばかりを選だはずなのに、

涙はいつまでも止まってくれませんでした。



※※※※※※※※※



この2日間、ベッドで静かに横たわる母に

いくら話しかけても返事はなかったけど、

肉体は確かに、そこに存在していました。



それが昨日、火葬されて、魂だけでなく、

肉体までこの世から居なくなった。



亡くなる前の体重は30kgもなかったけど、

骨だけになり、更に軽くなってしまった。


振り返れば、名前を呼べば、

未だ近くに居るような気がしてなりません。




親の死は、きっと、

何かを気づかせてくれるために起こるもの。



イライラして怒ったり、怒らせたり、

これまで沢山がっかりさせたきた。


いつも、自分のことばかりで、

ちゃんと想いやってあげれなかった。



色々な後悔が胸にある。


様々な後悔が僕を苦しめる。



けれど今悔やむなら、こんなにも悔しいなら

僕は変わろうと思う。



今まで面倒臭いから、嫌だからといって

背を向けて来たもの達と向き合っていこう。



そしてもう一歩、大人になっていこうと思う。



そうすれば、これから訪れる、幾人もの

大切な人達と、長く永く、寄り添っていける。




きっと、母が死をもって伝えたかったことは

こういうことなんだろう。




今更気がついても、もう母は戻ってこないけど



ありがとう、お母さん。



最後まで、不出来な息子で、ごめんね。




今まで一緒に居れた時間、

教えてもらった多くのこと、

五体満足にこの世に産んでもらえたこと。



その全てに感謝しています。



今日まで一緒に過ごした38年間、


腹がたつことも沢山あったし、

暴言を吐いたり、吐かれたり、

色んなことがあったけど、


何故、今は、こんなに楽しかったことしか

思い出さないんだろう。

涙が止まらないんだろう。



楽しそうに笑っている、母の無邪気な顔が

走馬灯のように、脳内を駆け巡る。



だけど、大丈夫。



来年77日、お母さんが月から戻ってくるまで

たった1年間のお別れだよね。



また会おうね。



今まで、色々と、ありがとうね。







お母さん、今までありがとう。

昨日、19:45分、母は、僕に手を握られ、

見守られながら、逝去しました。


そこから丁度、24時間が経ちましたが、

未だ、僕の心は、ここにあらずです。


明日の夕方、火葬式を執り行います。


****



これまで、多くの方に、母と僕の様子を見守り、

暖かいメッセージをいただけていたことが、

とても心強く、励みになりました。



皆様のコメントのおかげで、

崩れ落ちそうになる自身を奮い立たせながら、

この2ヶ月半、毎日、

母の介護に向き合っていけました。




返信は返せていませんが、

皆様からのメッセージは、全て目を通し、

日々の活力になっていました。



しかしながら、 昨日の様子を綴ろうとすると、

涙が止まらず、上手く文章にできません。



昨日のアクセス数は6000人に迫り、

続きを届けたいのですが、すみませんです、

数日間は、ブログをお休みさせて下さい。



また来週以降、その後の様子を

綴っていけたらと思っています。


来週より、少しずつ、

コメントの返信もさせて頂こうと思っています。



いつも、稚拙な文章で綴られた

僕のブログを読んで頂き、感謝致します。



お母さん、今まで色々と、ありがとう。